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浪人リスト


21 名前:管理スレ556参照@シェルター[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:10:16.30 ID:+FKzppsQ
データその3 抱え込めそうな武将リスト

1 明石全登
豊臣秀吉の中国大返しの時に姫路に人質に出された人なのでワンチャン宇喜多から保護可能?
キリシタンで優秀なのは皆様ご存知のとおり

2 姉帯兼信
九戸の乱で兄兼興と奮戦。銃創を十四ヶ所に受けたため馬上で腹を切り、刀を飲み込んで馬から落ちて切腹を遂げた剛の者
ちょうど元服したころ(15~16歳?)

3真田信繁
いわゆる幸村。1582年に元服。15歳です

4岡部長盛
岡部正綱嫡男。1583年に正綱の死で家督を継ぐ。水軍武将。岡部康綱という兄がいる?ので引き抜きは可能か

5丹羽氏重
丹羽氏勝の子。1580年に父親が信長に追放されている。森長可に討ち取られたが池田軍を3度打ち破った若き勇将

6 新関久正
最上家臣。新関因幡大堰をはじめとした治水事業で大きく貢献
鶴ヶ城建築も担当した東北屈指の内政官。年齢的に仕官したばかりか

7 石川五右衛門
丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出とする説を採用するなら
この年にちょうどこの城が落城して浪人になっている。NINJA!

8 小野忠明(神子上 典膳)
1582年時13歳。7年後に正木大膳と一騎打ちして引き分ける。
一刀流は習う前だが剣術はもう一流なはず

9 服部康成
伊賀出身の忍者。現在16~17歳。関ヶ原で津軽為信に300石で仕え、武功を上げ、昇進して家老としても活躍する万能型
伊賀は天正伊賀の乱のせいで反信長感情が強い

■武将(スキルは武士一般は略してます)

  • 六角義治(1545~1612)現在地山城国上賀茂? 信長の野望 統率36武勇70智謀17政治28義理16 弓A
 六角氏当主。義賢子。観音寺騒動で当主でなくなるが信長上洛後も織田に抵抗しゲリラ活動を続け
 父の降伏後も反織田で活動。後に秀吉の弓の師範となる。父の元にいる可能性が高い
 想定されるスキル:弓術(達人)ゲリラ戦(学生)など

  • 六角義定(1547~1620)現在地山城国上賀茂?
 六角氏最後の当主。義治弟。観音寺騒動後当主。信長上洛後知り合いの甲斐武田氏の下に逃げ込み
 織田と抗戦していた。武田家滅亡時に逃走。父親と一緒でなくても行き先くらいは知ってるはず
 徹底した反織田の人
 想定されるスキル:弓術(達人)

  • 林一吉(?~1604)現在地山城国京
 1580年(天正8年)8月18日、父の林秀貞と共に信長から追放される。京都に隠棲。
 1582年(天正10年)6月2日、京都本能寺で信長が明智光秀の謀反(本能寺の変)により死去したことにより、播磨国姫路に赴いて山内一豊に仕えた。
 後山内氏家老格。織田信長が生きている間は絶対許さなかった人なので本家に関わりのある人は現状雇えない
 想定されるスキル:政務(学生or一般)?

  • 赤井直義(1570~1653)現在地山城国京
 丹波の赤鬼の子。数えで現在15歳。元服した頃。父・叔父の死後京都に隠棲中
 大阪の陣で藤堂高虎の下で足軽大将
 想定されるスキル:武士(学生)止まり?

  • 赤井幸家(?~1606)現在地不明。直義なら知ってる?
 丹波三尾山城主、赤鬼と畏怖された赤井直正の弟。赤井直正の死去に伴い
 但馬竹田城へ出陣中に、その隙をついて織田家の明智軍により居城 三尾山城を攻め落とされる
 その後も直正死後の赤井氏を盛り立てたが、赤井氏の本拠、黒井城を攻め落とされ
 幸家は諸国を放浪、晩年は丹波多紀郡(現 篠山市)に戻り同地で没したという。
 想定されるスキル:武士(達人)

  • 三好政勝(1536~1631)丹波宇津? 太閤立志伝5 統率59武勇79政治47智謀16魅力72野心40
 三好政康弟?京兆細川氏家臣。右衛門大夫・因幡守・為三・一任斎。三好家臣になった後信長に降伏。
 元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長に叛旗。
 本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、
 肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」として登場。秀吉死後家康に仕え大坂の陣にも出陣し、96歳の長寿を全うした。
 元々丹波宇津城周辺で活動していたので丹波の宇津に隠棲している可能性が高い
 想定されるスキル:武士(達人)

■医者

  • 長沢道寿(?~1637)現在地山城国京
 江戸初期の医者。号は柳庵,丹陽坊,売薬山人。父の理慶も医者で山内一豊に仕えた。
 曲直瀬玄朔と吉田宗恂 に医を学び,のち一豊に従って父と共に土佐に移り,父の没後(1611)家督を継いだが,
 間もなくこれを辞して上京。織田信雄に仕え,これも辞して以後は市井の医として活躍,「土佐の道寿」と医名を博した。

  • 長沢理慶(?~1611)現在地山城国京
 阿波の人といわれ、のち京都に出て足利幕府に仕え、河内の国に所領を得ていたが、天正の頃に浪人して京都に移り、
 医を業にしたといわれる。天正十三年(一五八五)山内一豊が近江の長浜で理慶と嫡子理成を召出し、
 慶長六年(一六○一)一豊が土佐に移った時に随従して、土佐藩の最初の医官として仕えた

  • 江村専斎(1565~1664)現在地山城国京
 永禄年間に播州三石城主の江村民部大輔孝与が織田信長に圧せられて出奔し、京都に隠棲した。専斎はその孫にあたる。
 秦宗巴に従って医を学び、濂洛の学を修め、儒医をもって肥後熊本藩主の加藤清正に仕えた。
 加藤の死後は京都に帰り、寛永年間に美作津山藩主の森忠政に招かれ、賓師の礼をもって遇された。
 専斎は90歳を超えても眼や耳が衰えることなく、強壮であった。後水尾天皇に養生法を尋ねられて
 「養生の秘訣は別儀なし、飲食些く思慮も些し、ただ些の一字を体得するにあり」と答えた

■商人

  • 武野宗瓦(1550~1614)和泉国天神之森
 武野紹鴎の子。名は信材,また為久。通称新五郎。後見人だった義兄の今井宗久との財産の返還訴訟で敗訴
 本願寺信仰も加えて信長・秀吉の迫害を受けたが、駿府の徳川家康を頼って秀吉との間はとりなされた
 慶長16(1611)年家康の命で豊臣秀頼に茶の湯で仕え、大坂で没している。現在は信長によって堺から追放真っ最中
 拾ってあげれば反織田でがんばってくれそう
 参考
 ttps://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa060408.html

  • 食野正久(めしの。大饗おおあえ、讃岐楠木)(生没年不詳)現在地和泉国佐野
 和田長盛子。楠正虎の従兄弟叔父。次郎左衛門。1617年に楠正成の愛刀を信貴山に奉納している
 正久の代から廻船業を営み始める。正治とも。食野家が海運の豪商となる祖
 活動の始まりが1590年代からなのでまだ商家は持っていないと判断

■刀工など

  • 越前康継(1554~1621)現在地近江国坂本
 通称下坂市左衛門。近江国志賀郡西坂本生まれ。父下坂広長に鍛冶を伝授された後諸国を放浪する
 慶長年間に越前に定住。「肥後大掾」を受領し、家康の次男越前福井城主結城秀康のお抱え鍛冶となった
 葵の紋を使うことを許された名工。年齢的にまだ父の下で修行中か

  • 埋忠明寿(1558~1631)現在地山城国京
 金工師として足利将軍家に仕えた。新刀以降の鍛刀法である水挫し法を考案したと言われ、新刀鍛冶の祖と仰がれる
 初代肥前忠吉の師でもあり刀工として以上に金工師としての作品が現存は多い
 将軍家との繋がりから信長にいい感情は抱いていなさそう

  • 楽常慶(1561~1635)現在地山城国京
 陶芸家。田中宗慶の次男。千利休の一門か。利休の下で茶器を作っていたが楽吉左衛門家の2代目を兄がいながら襲名した
 襲名理由は利休の死によって利休の影響が濃い長男の襲名を避けるためという説がある。慶長年間以後に自名入りの作陶を開始
 楽焼の作風を広げる業績を残す。秀忠が亡くなったときには幕命で墓前の香炉を制作した
 次男坊なので引き抜きはしやすいか

吉野・五條地区
  • 淀屋常安(1560~1622)現在地大和国吉野
 山城国岡本荘の武家の出身だったが、織田信長に討たれ商人を目指すようになった。
 苗字を出身地の岡本、通称を三郎右衛門、名を与三郎、のちに善右衛門とした。
 隠居し仏門に入ってからは常安の号を名乗った。なお前期淀屋の歴代当主も三郎右衛門を名乗った

  • 蘇我理右衛門(1572~1636)現在地河内国五條 数えで12歳
 住友財閥の業祖と呼ばれ、家祖と呼ばれる義弟の住友政友とともに、創業者の1人に位置づけられる人
 銅吹き(銅精錬)、銅細工の技術を堺で習得し、1590年、19歳で京都寺町五条に銅吹きと銅細工の店を開業し
 「泉屋」と称した。堺に南蛮吹きを広めた人。現在は細工師の下で修行中。南蛮吹き教えるって言ったらほいほいついてきそう
 熱心な涅槃宗の信者なので、そこから攻めるのもいいかも

近江地区
  • 三雲成持(現在地近江国三雲村) 統率50武勇58智謀48政治45義理61 足軽C
 六角方の国人。1575年まで六角再興のため活動も降伏
 1584年に織田信雄に仕えるまで浪人(旧領で細々と活動中、明確な知行などは持っていない)
 甲賀の名門一族。甲賀二十一家の一つであり、代々六角氏に仕えた。六角義賢、義治を織田から匿い
 彼らも逃亡先として選ぶ程度に信頼されている。
 「三雲一族一人も信長に降参せず義を重んじ三度の誓約を守る。 」と絶賛された忠義の士

  • 浅井井頼(現在地近江国内?)
 浅井長政の三男(または次男)で浅井万福丸の弟とされる。
 現在13歳。信長の残党狩りから逃れ1583年の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)側に属し、
 その後に豊臣秀次、豊臣秀保の家臣となり、600石の知行を与えられる

  • 吉田源八郎重氏(1562~1631)現在地近江国吉田〔目賀田城そば〕
 日置流印西派の祖。吉田重氏の娘を嫁にとる。21歳と若い&六角家臣筋で反織田。

  • 浅井政高(1560~1615)現在地近江国高島郷
 田屋(浅井)明政婿養子。通称田尾茂左衛門。義母は浅井鶴千代。妻は海津局。小谷城での戦いで義父明政死後
 初めは生田姓、後に田尾姓を名乗る。秀吉が淀殿を側室にした時呼び寄せに応じて出仕するまで帰農
 妻海津局は宗正寺にいる出家した母の下にいる。反織田で帰農してるくらいなので安いはず

  • 堀徳印 (生没年不詳)現在地近江国八幡野村城址周辺
 父堀定澄の仕える六角氏が織田によって近江から駆逐されて後医師。子の堀杏庵が曲直瀬正純に学んでいるので
 師は曲直瀬正盛か。子も近江生まれ(1585)なので、近江で医師をしている可能性が高い
 医師としてだけでなく元武家&反織田なので武家としての再興と医師としての仕事をセットで頼んだほうが良さそう

  • 小杉五郎右衛門(初代、生没年不詳)現在地近江国五個荘
 六角家臣位田源右衛門(鯰江に所領)の家臣だったが、六角氏衰退後帰農。1717年より北陸への行商を始める一族の初代
 小杉産業の祖。近江商人。五個荘で商売を始めるのは信長死後なので今は農民

  • 岡田弥三右衛門(1568~1654)現在地近江国安土城下
 岡田家は六角家臣で元武士の家柄だが六角衰退で帰農した家である
 呉服太物による行商で財を成し八戸や松前に進出。日本海側の松前藩御用商人となった
 14,15歳で家を出て安土城下に暮らしているが、本格的に店を持って商売をし始めた記録は
 信長死後八幡の開発が秀次の下で行われるようになってからのため、現在は安土のどこかの商家で
 手代か丁稚奉公をしている最中と考えられる(家を出て1,2年なので)
 参考
 ttp://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/8347/2/KEIZAI%20SHIRYOKAN%20KIYO_019_025-082Z%20uemura.pdf

  • 和田治太夫(生没年不詳)現在地近江国日野
 近江・日野の鉄砲鍛治年寄、和田家は代々治太夫の名を当主が使い、明治時代まで鉄砲鍛治を生業とした
 蒲生氏郷が家督を継いだ1584年以降堺の鉄砲術を学ぶため氏郷により堺に派遣されるが、現状ではただの鉄砲鍛冶

丹波・若狭編
  • 荒木氏綱(?~1582?)現在地丹波国東本荘(堺から4日) 信長の野望 統率72武勇77知略63政治12義理88 足軽B騎馬C兵器B
 元波多野家臣。丹波多紀郡の人。織田軍を何度も撃破したが1579年に主君波多野秀治死後降伏
 以後は主家をたてて嫡子を出仕させ隠居生活を送る。本能寺の変後光秀の下に駆けつけ勢田で戦死したといわれる
 両津の叔父?

  • 波多野定吉(生没年不詳)現在地丹波国味間文保寺
 波多野秀治子。幼名甚蔵。1579年の落城時は幼年だったため、乳母に連れられて城を脱出し
 丹波国味間の文保寺に匿われた。成人後還俗して波多野右衛門尉定吉と名乗り篠山藩に仕えた。
 →本人の能力より、波多野氏再興の旗頭として適任。現在10歳くらい?

  • 吉見守重(生没年不詳)現在地丹波国氷上郡鹿集
 氷上郡鹿集城主吉見則重の子。赤井家臣。助太夫。1578年、明智光秀による鹿集城落城で父を失い、
 赤井直正病没後帰農した。本能寺後嫡男吉見治重は織田信包に仕えた。

  • 朝倉光景(土橋吉六、現在地若狭国大飯郡高浜城) 生没年不詳
 朝倉義景または景鏡子。溝口秀勝娘を娶る。土橋姓は朝倉景鏡が信長降伏後に名乗った姓だが
 景鏡死亡時に息子は全員死亡しているはず?義景子だったら反織田ですね。一応そっちを自称してる
 溝口伊織家初代当主。妻の父溝口秀勝の年齢(35歳)考えるとそろそろ元服か

  • 逸見虎清(へんみとらきよ、現在地不明。若狭か?) 生没年不詳
 逸見昌経子。若狭武田重臣逸見家の嫡子。信長に仕えていた父が1581年に死亡した後その遺領8,000石のうち、高浜城5,000石は溝口秀勝に、
 新知分3,000石は武田元明にそれぞれ分配され信長によって意図的に逸見氏を没落させられたためほぼ確実に浪人

そもそも九州近辺に残ってる人材
  • 塩谷安芸守(えんや、生没年不詳)現在地周防国岩国
 塩冶高清の嫡男。但馬海賊衆を率いた父と共に織田と戦ったが破れ父は奈佐日本之助と共に自刃
 その後毛利の下に逃げ込み吉川元春の下で60石の家臣となっている
 反織田の水軍は地味に少ないので貴重&毛利降伏で居づらいはず&雇いやすい知行レベル
 家臣団として塩冶秀詮、塩冶秀国が生存

  • 塩谷高久(?~1633)現在地周防国岩国
 兄の安芸守と共に吉川の下に逃げ込んだ。江戸以降も血族が繋がっているのはこちら
 兄と一緒についてくるかも?

  • 江原源右衛門(初代長崎屋源右衛門、?~1620)現在地長崎
 徳川家康の時代に江戸日本橋にて薬種問屋を営む。将軍拝謁のため江戸にきた長崎のオランダ商館長(カピタン)一行に
 定宿(江戸阿蘭陀宿)を提供し、江戸時代250年間その職務についた。長崎出身なので現在は長崎在住
 年齢的にまだ商家を自力で持っていないと判断(60前後で亡くなったらしい?現在20歳くらい?)
 参考
 ttp://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_e/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E5%8C%97%E3%83%BB%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%94%B0%E3%83%BB%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E3%83%

BB%E6%B5%9C%E7%94%BA-2/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B1%8B%E8%B7%A1
 ttp://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B1%8B%E6%BA%90%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%28%E5%88%9D%E4%BB%A3%29

  • 原田孫七郎(生没年不詳)現在地長崎
 ガスパル原田。キリスト教徒。原田喜右衛門の一族で手代。フィリピン貿易に従事し,マニラに居住して,スペイン語に通じていた
 1591年スペイン領フィリピンに日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラのスペイン領フィリピンの総督
 ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに出向き交渉したが失敗した。海外情勢に詳しかった
 多分大金積まないと引き抜けないかも

  • 村山等安(1566?~1619)現在地長崎
 アントン村山。キリスト教徒。文禄の役の際に名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎の地子銀25貫を納めさせる代わりに、
 御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預かる長崎代官になりたいと願い、許可された
 秀吉の死後も長崎の代官を務め、呂宋壺の他に生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易を行い富を得た
 新興の長崎商人と対立して元和5年(1619年)10月26日に江戸で斬首、一族も長崎で処刑された
 天正年間に長崎に移住したとされているので、長崎に移ってきたばかりで商売を始めてないと強弁してみる

  • 高田行長(生没年不詳)現在地豊後高田
 豊後国府中の高田派の刀工。寛文新刀のひとつ。慶長年間に活躍。高田派は大友氏をパトロンとしたが
 耳川以後衰退をはじめ、大友氏改易などで衰退した。江戸期は万人向けの刀を大量に供給して再度繁栄した
 現在絶賛パトロン募集中

  • 小山左馬介(生没年不詳)現在地肥後国菊池
 1570年前後から活躍した肥後刀工同田貫の1人。銘を九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫などと切り、
 個銘(刀工の名)のある人はこのくらいしか発見できなかった・・・。普通に近場なのでお金で雇いませう

  • 信国助左衛門吉貞(?~1640)現在地豊後国宇佐安心院周辺
 刀工。1592年に独自袋槍を開発している。筑前信国派初代。初め吉定、俗名常六、助左衛門。1582年から父と共に浪人

  • 堀川国広(1531~1614)現在地日向
 刀工。日向国飫肥に生まれて伊東家に仕える藩士であったが主家没落後諸国を放浪して刀工を続けた
 1590年に足利学校で鍛刀。1599年から京堀川一条に定住。1584年2月に日向の飯田新七良藤原祐安に刀をうってるので
 現在は日向国内にいる可能性高し