『Wall Breaker(s)』
追い立てられた獲物の耳障りな荒い呼吸音がすぐ傍で聞こえ、鼓膜を震わせる。他人のもののように思えるそれは、しかし間違いなく彼自身のものだった。
非合法の地下カジノを逃げ出し、路地裏の物陰に息を殺してその身を隠す。胸を突き破りそうな心臓の鼓動は激しく、気のせいだと分かっていても周囲に響き渡ってしまっているのではないかと思われた。
──────────このまま、何とかやり過ごして。
「いたぞ!」
祈るような少年の願いはあっさりと打ち砕かれる。スーツを着ていてなお分かる筋骨隆々とした体格の物々しい一団は獲物を見つけると、訓練された猟犬のように迅速に、そして無慈悲に彼を袋小路へと追い詰めた。
少年に彼らに抗する力はない。彼の抵抗など全くの無意味で、文字通り赤子の手をひねるよりも容易く制されてしまうだろう。
絶体絶命。
逃げ場を失った仔兎は、最早狩られるのを待つばかり。
だが、彼を取り巻く運命はその結末を良しとしなかった。
「確保しろ!」
追っ手の号令が響くと同時に。
爆発──────────そうとしか思えない大きな破壊音と共に、少年の背後の壁が崩壊した。説明できない予感に、咄嗟に身を屈めていなければ少年も只では済まなかったかもしれない。
「…………ったく、こんなところに壁があったら近道できねーじゃねぇか。邪魔くせぇ」
傍若無人な、あまりにも自分勝手な理由。公共の建築物を何の躊躇いもなく破壊したのは鉄パイプを肩に担いだ荒っぽい雰囲気の少女。燃えるような髪をお団子に纏め、エンジンがかかったままのバイクに跨っている。
思ってもみない闖入者に、追っ手の男たちも──────────少年でさえ、呆気にとられて時を止めていた。
「何だお前ら、こんなところに集まって…………うん?」
そこで鉄パイプの少女は少年の姿に気付く。同じ学校で舎弟のようにこき使い、子分のように小間使い、そして弟のように可愛がっている少年に。
「何してんだよ。またいつものトラブルか?」
学内でも筆頭の問題児である自分の事は棚に上げ、少女は呆れたように尋ねる。
「え、あの…………うん」
漸く衝撃から立ち直った少年は辛うじて頷いた。だが、同じタイミングで男たちも正気に返る。
「何者か知らんが、邪魔をするな。我々の行動は政府によって保障されたものであり、逆らえば違法に…………」
「うるせー、クソッタレー!!」
路地裏を揺るがす大音声。そして唾を吐き捨てて。
「俺はそーゆーのが一番大っ嫌いなんだよ! おめーら全員ぶっ飛ばす!」
荒事を生業とする筈の男たちは、その迫力に気圧される。
喧嘩はビビった方の負け──────────少女にとっては国家権力への反逆すら、街のチンピラの喧嘩と同じだった。
「なんか、めんどくせー事に巻き込まれてるみてーだな」
追っ手の男たちを叩き伏せると、少女は折れ曲がった鉄パイプでコツコツ、と自らの肩を叩きながら少年を見やる。
「うん、ちょっと……ね」
「助け、いるか?」
少女の短い問い掛けに、少年は黙って首を振った。
「そうか、ならいい」
素っ気ないやり取りでも、それで充分だった。大事なのは交わした言葉の多寡ではなく、伝わる意思。
「僕、そろそろ行かないと。助けてくれて、ありがとう」
「おう、気にすんな」
少女はくしゃくしゃ、とやや乱暴に少年の柔らかな髪をかき混ぜてから、にっ、と歯を見せて笑った。
じきに別の追っ手が来るだろう。あまりここに長居はしていられない。鉄パイプの荒くれ少女にも、監禁場所からの脱走を手助けしてくれた少女にも、これ以上頼る事は出来ない。
壁を壊す二人の少女の助力を無駄にしない為にも。
少年は自ら壁を壊さねばならない。
たとえそれがどんな結末を生むとしても──────────。
<了>
最終更新:2013年12月30日 23:58