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目が眩むような日差しの下、風をはらんで大きく膨らんだ帆の先端、マストのてっぺんにとまったアホウドリが、波の音にあわせるように一声鳴いた。

船は追い風を受け、紺碧の海を滑るように進んでいる。あたしは波にあわせてゆるく上下するデッキの上に広がった綱を一つに纏める手を休め、真っ白な雲と真っ青な水平線の接する彼方を見つめた。午後の強い陽を照り返してキラキラと輝く海面のあちこちには海鳥が群れを成して飛び回っているところがある。ああいう所には小魚の群れがあるんだとドノヴァンが言っていたっけ。

それにしても今日は暑い、強い海風を浴びていても火照った体は冷めることなく、全身から流れ出た汗が薄い粗末なシャツをべったりと肌に張り付けた。あたしはシャツの襟もとを引っ張って汗の流れ落ちた胸元をあおぐと、視線を手元にもどして船上で使う太くて重い綱を束ねる作業に戻る。

「おい!アルメリア!そっちゃあいいから、ちょっとこっち来い!」

船室の窓があき、甲板長のローム爺の怒鳴り声が降ってきた。あたしも負けずに大声でアイッ!っと返事をして立ち上がると、駆け足で船室に向かう。最近とみに気が短くなったローム爺は若い船乗りがのろのろ歩いているのを見かけるとすぐに怒鳴り散らすようになっていたからだ。

船室のドアを開けると、眩しさに慣れた目には真っ暗に見える船室に入る。潮の香りと、船乗りたちの汗の匂いが充満した船室はむせ返るように暑くて、あたしは思わず額に張り付いた前髪をかき上げるようにして汗をぬぐった。

徐々に目が慣れていくにしたがって、船室の中の空気がいつもと違うことに気が付いた。部屋の中にはさっきあたしを呼んだローム爺のほか、数名のこの船の主だった者たちの姿。その中心には船長の姿もあったが、何より気になったのは、大柄な男が二人、床にへたり込んでいたことだ。やがて目が慣れ、へたり込んだ男の顔がしっかりと見えるようになったあたしは思わず大声を上げてしまった。傷だらけの床に座り込んでいるうちの一人が、あたしがこの船に拾われてからずっと世話をしてくれていたドノヴァンだったからだ。

ルガディンとしてはかなり小柄なドノヴァンの顔は、まるで膨らんだボムみたいに腫れ上がり、切れた口元から乾きかけた血が、しみだらけのシャツに滴っていた。

「ドノヴァン!?…いったいどうしたのさ!?」

あたしが駆け寄ると、ドノヴァンは目をそらしうつむいて、介抱しようと伸ばした手もふり払われてしまった。いつもは優しい兄のようなドノヴァンのこんな態度の理由がわからず、あたしはお頭…船長の顔を見上げた。

苦虫をかみつぶしたような表情のお頭は、黙ってドノヴァンの向かいに座り込んでいるもう一人の男を顎で示した。それはドノヴァンよりも年上のルガディンで、この船でも特に大柄で、一番の乱暴者で通っている男だった。そいつの顔も腫れてはいたがドノヴァンほどではなく、表情にも明らかに余裕があり、口元にうっすらと笑みさえ浮かべているようだった。

「お頭、何があったんです?喧嘩ですか?」

血の気の多い船乗りたちの間では喧嘩など日常茶飯事だ。だが、それでどうしてあたしが呼び出されたんだろう。あたしは、目の前でにやにやと笑っている男の視線が不愉快になって目をそらすと、お頭のほうを振り返った。

「アルメリア、おめェ今年でいくつになった?」

突然なんだろう…あたしは少し迷った後、15くらいだと思うと答えた。本当のところは解らない。漂流している船を救助した時、死体だらけの船内でただ一人の生き残りがあたしだったのだそうだ。ドノヴァンがそう教えてくれた。

でもそれがどうしたと言うんだろう。もしかして何かとんでもない失敗をやらかしちゃったんだろうか。気がつくとその場にいる全員の視線があたしに注がれている。なんだかすごく居心地が悪い。あたしはもじもじと身じろぎをしながらお頭に聞いてみた。

「えっと…それがどうかしたんですか、お頭…」

するとお頭は顎の下に生えているゴワゴワの髭を擦りながら、不安に身をすくませたあたしに向かってこう言い放った。

「おめェ、船を降りろ」

一瞬意味がわからなかった、やっぱりあたしは何かやらかしたんだろうか。

「どういうことですか!あたしが何かやらかしたっていうんですか!?」

「…いいや、おめェはよくやってるよ。根性だってある。そこいらの奴よりよっぽどいい船乗りんなんぜ」

じゃあ一体何だというのだ。あたしは物心ついた時からこの船にいる。むしろ荷物の上げ下げの時以外はこの船を降りることは殆ど無いくらいだ。他の仲間達が港の酒場に繰り出す時だってあたしとドノヴァンは船で留守番を買って出ているんだ。はっきり言える、あたしは他の誰よりも一生のうちの多くの時間をこの船にいる。それがなんで…。

「俺の船には女は乗せねぇ、これァ俺の信念なんだよ。アルメリア、おめェを今まで乗せていたのはまだガキだったからだ。だがおめェはもうガキたァいえねぇ…女だ」

お頭の目があたしの胸元に注がれている事に気がついて慌てて胸元を押さえる。たしかに最近すこしずつ膨らんできていることには気がついていた。でも、ここにはそんなことを気にする奴はいないとずっと思っていたし、あたし自身気にしたこともなかったのに。

「だ、だけど…今までそんなこと気にした奴いないし…」

「問題が起きてるから言ってんだよ。ほれ、そこに転がってる馬鹿どもを見な!」

私はハッとなって床に座り込んでいる二人のルガディンを見た。ドノヴァンは悔しそうに、そしてもう一人は口元に下卑た笑みを浮かべて私を見つめている。

「じゃ、じゃあ…この喧嘩は…」

「おめェが原因なんだよ、この唐変木!ケッ…女が船に乗るとこれだから嫌なんだ。ろくな事がねェ…おめェ一人がこの船にいるだけで船の結束が乱れンだよ!」

割れ鐘のようなお頭の土間声で怒鳴りつけられた私は身をすくませた。

「…明日の朝にゃあリムサ・ロミンサの港につく、おめェはそこで船を降りな。あそこの酒場にゃあ古い馴染みの男がいる。相談すりゃあ身の振り方も世話してくれんだろう」

「お、お頭…」

「わかんねぇか?じゃあ、おめェのそのからっぽの頭の上にある、この船の帆を思い出してみろ。そこにゃあ何が書いてある、え?こいつは商業船か?おい、おめェが乗ってるのはお上品な客船かなんかか?」

目に涙を浮かべたあたしは親方に問い詰められて黙りこむ。…違う、この船はそんな真っ当な船じゃない、あたしたちが乗っているのは…そしてあたしたちは。

「…海賊船…」

「そうだろう、ここの掟は「力で奪え」だ。おめェを守んのもこれが最後よ。次にあの馬鹿がおめェを手篭めにしようったって、俺は手ぇ出さねぇからな。そこのチビはからっきし弱えしよ」

ぎりっとドノヴァンの口から歯ぎしりの音がする。そうか、これでわかった。あの乱暴者があたしに手を出そうとしたのを、ドノヴァンが庇ってくれたんだ。喧嘩が苦手で、いつも他の海賊たちに馬鹿にされていたドノヴァンが、この船一番の乱暴者に立ち向かってくれたんだ。

あたしはドノヴァンのそばにしゃがみ込み、痣だらけの身体を力いっぱい抱きしめた。

「ドノヴァン…あたし、船を降りるよ…」

「アルメリア…俺は…」

「大丈夫だよ、ドノヴァンが教えてくれたたくさんの事があるからさ、ちゃんとやっていけるよ…」

その時、ドノヴァンのむこうにしゃがんでいた乱暴者が下卑た笑いを顔にこびりつけたまま割り込んできた。

「娼館が決まったら教えろよ?常連になってやんぜ?」

腹の底にカッと火が入ったように熱くなる。あたしは立ち上がるとそいつを睨みつけた。

「あんた…ドノヴァンに手を出して見な、あたしが絶対に許さないよ。…あたしは強くなる、あんたなんか目じゃないくらいにね」

あたしの恫喝を聞くと、そいつは腹を抱えて笑い出した。あたしはもうそいつには構わず、ドノヴァンに手を貸して立ち上がらせると、お頭に支度をしてきますと言って船室を出た。

その日の晩、月明かりが照らす甲板にあたしたちは並んで静かな海を眺めていた。日が落ちてから風が変わり、船の速度が落ちているのは、航海の神リムレーンがあたしがこの船で過ごす最後の時間を惜しませてくれているのかもしれない。

ふたりとも押し黙ったまま、髪を揺らす冷たい海風に目をすぼめながら、遥か水平線の彼方を見つめている。思えば15年ほど、一生全てといってもいい時間を過ごしてきた船だ。だからあたしは船の外のことは殆ど知らない。船を降りてその先どうしたらいいのか、まだわからない。

「アルメリア…実は…」

「…ん?」

「ずっと言わなきゃと思っていたんだ…君が乗っていた船を襲ったのは…」

「ストップ!…その先は言わないでよ。なんとなく予想はしてたしさ、…覚えてもいない昔のことだよ…」

ドノヴァンは困ったような笑みを浮かべている。あたしはまだ切れて腫れ上がったままの彼の口の端を指でなぞると、にっこりと微笑んでみた。

お頭の前でああは言ったけれども、あたしの心は不安だらけだった。だけど決心を固めた今、あたしの胸には不安をはるかに超える、胸がわくわくするような期待が沸き上がっていることに気がついた。世界は広い。そうだ、この海全部よりも世界はもっと広いんだ。私はそのすべてを見てやるつもりだ。

「ドノヴァン、今までありがとう…あたしを育ててくれて」

「アルメリア…」

あたしはこの15年間ずっと見守ってくれた小柄なルガディンの両手をしっかりと握った。この温もりを覚えておこう。これがあたしの家族の温もりだ。だからどこに行ってもあたしは一人じゃない。どこまでも広いこの世界の中で、きっといつだって同じ空をみあげているはずだから。

東の空を赤く染め上げ、太陽が登りはじめた。でも今日は水平線からじゃない。遠くかすかに霞む山々と林立する真っ白な塔の群れが、朝日を浴びて光り輝いている。海洋国家リムサ・ロミンサ。身を切るような朝の風の中、あそこから私の旅が始まるのだ。