男女平等の誤解


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男女平等の誤解(作成中)

最初から世界を敵に回すようなテーマから始めたいたい思います。
男女平等という言葉は、ややもすれば無条件に良い事、あるいは目指すべき当然の理想であるように扱われ、これを否定する事は社会においてタブーであるかのような様相を持っていますが、世間、あるいは日本社会、そればかりか世界中で認識されている男女平等の理念は実のところ非常に不安定であり、目指すべき理想を定められず、言葉から受ける直訳的な解釈によって、やや間違った方向へ進んでいるように私は感じています。
では真に男女が平等であるという事はどういうことなのか、順を追って考察していきましょう。


男女平等で女性は幸福になったか?

女性の権利は確かに、近代まで蔑ろにされてきたようです。
と、伝聞調で書いたのは私自身がそれを体験したわけではないからです。正直な所、それが真実であるかどうか確信があるわけではなく、多くの人がそうだというからそうなのかな?という程度のものです。

とはいえ、そうした伝聞事を裏付けうる史実はあります。
一番最近で特徴的なものの一つは選挙権でしょう。
1946年に公布された日本国憲法の制定により20歳以上の男女に選挙権が付与されるまで、選挙権は25歳以上の男性にのみ与えられた権利でした。

それが真に良い事なのか悪い事なのかを判断できる人は存在しないでしょうが、少なくとも『西洋文化』ではそれは良い事とされ、米国主導による戦後復興の中、日本はそれまでの価値観を半ば強制的に否定された形で『男女平等』を良い事とする『文化』へと進むよう定められたわけです。

これにより女性も日本国という国を形成する具体的な権利を獲得する事になります。
こうした出来事を後世の世論、あるいは世界は手放しで歓迎しました。もちろん例外もあったでしょうが、大多数の国民は選挙権の獲得を『良い事』として記憶する事になります。

ところが、ここで疑問が生じます。
なぜ男性だけが持っていたのか?という事です。

『男性だけが持っていた権利が女性にも与えられた。あるいは勝ち取った』

言葉にすれば選挙権の獲得は多くの場合そのように語られます。
しかし、別の視点で見れば、次のように見る事もできます。

『男性だけが負っていた義務と責任を女性も負わされる事になった』

権利と義務は表裏一体です。
得る事で負う事が生じるもの、負う事で与えられるもの。それが権利と義務の関係です。
正直なところ、私個人の意見としては選挙権に関しては女性は『獲得すべき』、『負うべき』であったし、『獲得して』、『負って』良かったと考えています。
社会とは男女共に属する義務があるのにも関わらず、その社会を形成する権利が男性だけに与えられているというのはフェアとは言えないからです。

ただ、全ての男女間に存在する不平等が全て男女平等に『獲得すべき』で『負うべき』かというと、私はそうは思いません。
不平等である方が幸福なものもあると思います。
そして、男女が等しく『獲得すべき』、『負うべき』権利の中にも否定されるべき要素があります。

物事はとかく0か100かで語られがちだし、捉えられがちです。
特に西洋においては、ハッキリと自身の意見を述べる事を良しとする文化があり、日本人の曖昧な主張は国際社会において欠点として指摘されがちです。
しかし、世界中がそうであっても、長い歴史を持つ日本の文化が他国に劣っているとする決定的根拠はありません。
仮に西洋が49以下を0に、50以上を100とする文化なら、日本は0から100までの全てを個別に捉える文化です。
物事を進めるにあたり、西洋文化の概念は効率的です。しかし、49と50が0と100として扱われるのは乱暴すぎます。

男女平等は0と100の文化の産物です。
しかし男性と女性の関係は0と100で分けられるほどシンプルなものではありません。
両者の間には0と100の違いもあれば、49と50の違いもあります。
そのすべてを0か100で分類し、そうして評価した差異に100を足すか100を引くかして等しくする行為は、当然無視した差異の分だけ歪みを生むことになります。

近代になって、女性は男性が持つ権利を自分たちにも与えろと叫び、いくつかの権利を手に入れましたが、それらは本当に男性が100を持ち、女性が0である権利だったのでしょうか?
男性が50の価値の権利を持ち、50の義務を持っていたのに、それを100と見なして女性に100の権利と100の義務を与えた可能性は無いのでしょうか?
女性は男性以上に過剰な権利と義務を負うハメになっている可能性は無いのでしょうか?
あるいは50しか生じえない義務に対し、100の権利を与えられ、男性以上に優遇されている可能性はないのでしょうか?

男性社会であった会社組織に進出した女性たちは本当に男性が仕事によって得る幸福に近づいたのでしょうか?

※以下作成中





言葉の定義

男女平等とは、社会における男性と女性の持つ権利が同等である状態を指します。
一般に男性と女性の権利が同等である事を男女同権と言います。
直訳すれば男性の持っている権利と、女性の持っている権利が等しい、同じものを持っている……と解釈するのが自然でしょう。


男女という言葉と平等という言葉

ちょっと別の視点から『男女平等』という言葉を考察してみます。
『男女平等』という言葉を分解して成り立ちを考察してみましょう。
分解というのは『男女平等』という言葉を『男女』と『平等』に分解するという事です。
『男女』というのは男性と女性という意味ですが、成り立ちとしてはある部分について相対的に性質が相反する二つのものを並べる事でできあがった言葉です。似た構成の言葉に『紅白』、『苦楽』、『大小』、『左右』、『緩急』などがあります。
一方、『平等』とは平らかで等しいという意味ですが、成り立ちとしては類似の二つを並べて、共有する意味を強めたり、共通する概念をあらわしたりする言葉です。似た構成の言葉に『荒廃』、『粗雑』、『驚愕』、『純粋』、『嘲笑』などがあります。

このように、『男女平等』という言葉は、異質なもの・等しい状態という相反する言葉が並んでいる事になります。


異質である男女を同等にすることは正しいのか?

これは正しくありません。
なぜ正しくないと断言できるのか、分からない人は居ないでしょう。
世の中が男性だけ、あるいは女性だけになってしまったらどうでしょう?
もっと厳格に等しくするのであれば、他人さえなく、全人類が単一の人格であるとしたら?
上記は極端な例えですが、平らかに等しくするという言葉の意味は原則的にはそういう事です。

ケーキを平等に二つにわけるなら、可能不可能は別として同じサイズ、同じ重さに分割する事が理想になりますし、勝敗を平等に決めるのであればその方法は互いに勝率が50%と50%であることが理想であり、仮に誤差が無視できるほど小さく49.999999%と50.000001%でも理想的とは言えません。
『平等』という言葉は、平素皆さんがその言葉を使おうと思う以上に強力な意味を持っている言葉なのです。

ところが男女を平等にするという言葉は、その前提の部分から矛盾を抱えてしまっています。
すなわち、男女が異なる事で得られる利益までも否定してしまっているという事です。
なぜ恋をするのか、なぜ友人を欲するのか、なぜ喜怒哀楽といった感情が存在するのか、大切なものは異質である他人があってこそ存在するものです。
『男女』は異質であるからこそ価値があるのに、『平等』という言葉は人にその価値すら平らかにするよう強いてしまうわけです。

ここまで深く考える必要はないのですが、実際、『男女平等』という言葉を男性と女性が全く同じ権利を持つ事と考えている方は多いのではないでしょうか?


Gender Equalityから

『男女平等』の生まれ故郷である『西洋文化』からして、この『異質を同質に』という乱暴な概念は無視されてきたようです。
そもそも『男女平等』という言葉からして『Gender Equality』から日本語訳したものなのですから、当たり前と言えば当たり前です。


Gender Fairへ

『平らかに等しく』するのはどうにもうまくいかないので、『公に平らかに―』というくらいがちょうどよろしいとは思いませんか?
男女が互いにフェアであること。
本来、これこそが目指すべき男女間の理想的な理念であるはずです。

例えば男女平等ではスポーツが男女別々に競技を行うことを説明できません。
例えば男女平等では男性が女性に手を挙げてはいけない理由を説明できません。
例えば男女平等ではレディーファーストを否定しなければなりません。

しかし、男女公平であれば、男女の差異を考慮しながら互いに公平と言える平衡点(バランスが取れるポイント)を模索できます。
いずれにせよ、完璧は目指すべくもないでしょうが、平等よりは幾分マシでしょう。