スキ禅寺が殺人願望を抱くまで

 

 

 

 殺したい――銛禅寺高広(スキゼンジ タカヒロ)は息をするように、ただ当たり前に、そう思った。
 その視線の先で『女』が他人と群れ談笑しながら去っていった。女子生徒、銛禅寺のクラスメイトである。
 艶やかでさらさらとした長い黒髪、大きな丸い眼、やわらかそうな唇、化粧をせずとも綺麗な肌――銛禅寺は彼女を好ましく思っていた。だから、何故彼女を「殺したい」などと思ったのか、銛禅寺にはわからなかった。
 彼女は別に、銛禅寺に何か危害を加えたことなどない。そもそも彼女と銛禅寺には、クラスメイトという以外、関係らしい関係はないのだ。お互い怨恨の類など持ちようはないから、そんなよくある理由ではないのだろう。ならば、
 ――破壊欲?
 銛禅寺は、己の感情を酷く面倒に思った。

 銛禅寺は道徳だの倫理だのというものには然程興味がない。しかしだからといって、理解できない程馬鹿ではない。それらが人間として生きるための尊厳であり、蔑ろにしてしまえば――そうと周りに認められたら――人間をやめたのと同義だというのはわかっている。
 しかし欲望というやつは、それらと必ずしも同じ方向を向くとは限らない。
 人間だって「食いたい」「寝たい」「性交したい」といった動物の欲はある訳で、そういう真っ当な欲望も行き過ぎれば道徳倫理から外れることもある。そして欲望は心のはたらきであるから、満たされぬ限り抑えることは難しい。道徳倫理による抑圧は役に立たぬどころか、下手を打てば欲望を増幅させてしまう。
 どうにも――面倒だった。
 どうにかして効率的に、道徳倫理を侵さずに欲望を解消せねばならない。ただ我慢するだけでは、その分だけ人間から遠ざかる危険が高まる。銛禅寺はそれを十分にわかっていた。

 
 だから、銛禅寺は猫を殺した。
 たまたま銛禅寺の足元を通りかかった小さな野良猫は、首を捻るとすぐ沈黙してしまった。
 満たされた気分は全くなかった。そういえば自分は猫が好きだった、と猫の墓穴を掘り終わったところで銛禅寺は気づいた。同時に、自分の実験に付き合わせてしまった彼だか彼女だか分からないその小さな生きものを気の毒に思った。

 銛禅寺は猫に土を被せながら、自らの欲望の正体を捜した。
 ――猫じゃ満たされない。物足りない、ということじゃない、猫じゃ意味がないんだ。
 ――猫以外のものは?
 ――多分、それも意味がない。単なる破壊欲じゃないんだ、きっと。
 ――人殺しがしたいんだ、僕は。
 ――それは、どうして?
 性癖にも色々ある。加虐性愛(サディズム)、屍体性愛(ネクロフィリア)――銛禅寺は痛みに喘ぐ人間に興奮したこともなければ、葬式で見た知人の死に顔に欲情したこともない。
 人を殺して世間を騒がせたいのか――そんな動揺は一ヶ月あればほとんどなくなる。その短期間のために人生を棒に振るなんて馬鹿のすることだ。

 ――そもそも、何故『彼女』だったんだ?

 銛禅寺は先程彼女を「殺したい」と思った時まで、そんな欲求をもつことなどなかった。なぜ銛禅寺の殺意は特定の人物にだけ向けられたのか。
 艶やかでさらさらとした長い黒髪、大きな丸い眼、やわらかそうな唇、化粧をせずとも綺麗な肌――可憐な『女(ひと)』――銛禅寺は脳内で彼女の後ろ姿を追った。目前を歩く彼女に近づき。彼女を呼び。振り向いた彼女のあどけない微笑みを凝視して銛禅寺は――やはり彼女を殺している。
 そして脳内の銛禅寺は――高揚していた。
 何に対しての高揚なのか、それは、

 ――彼女を殺したこと?
 ――違う、行為それ自体じゃない。
 ――僕は、
 ――…嗚呼!
 『これ』は恋だッ――銛禅寺は虚空に叫んだ。
 それからつくったばかりの墓を掘り起こして首の曲がった猫を抱き上げた。
「嗚呼、『これ』は素敵なことだッ!」
 猫の毛から僅かばかり付着した土が降りかかるのもお構いなしに、頭上に持ち上げくるくると銛禅寺は踊る。もう何も聞こえないだろう黒い毛玉に銛禅寺はかく語った。
「これは独占欲だ。他人の死に姿など悍ましいだけだけれど、大切な人の死に際には立ち合いたいと誰もが思うだろ?殺すことはその時間その想いを剥奪することだ!殺す瞬間、人生最大最後のイベント――彼女の死を看取るのは僕だけなんだ!嗚呼甘美だ、素敵だッ!」
 高い声で朗らかに笑いながら、毛玉――既に銛禅寺は生きものとは認識していない――黒猫を穴に放ってぞんざいに土をかけ、銛禅寺は駆け出した。
 先程、彼女は遊びに出かけると友人に話していた。彼らの街は然程大きくはない。遊びに行くというなら行先は大体決まっている。
 銛禅寺は今どうしようもないほど、彼女を殺したかった。

 先程まで考慮しようと苦心した道徳や倫理などは、どうでもよくなっていたのだった。

 

 

 艶やかでさらさらとした長い黒髪、大きな丸い眼、やわらかそうな唇、化粧をせずとも綺麗な肌――可憐な『女(ひと)』――銛禅寺は彼女の後ろ姿を追った。目前を歩く彼女に近づき。彼女を――
 彼女の名を呼ぶのを、銛禅寺はやめた。

「ね、そこのクレープ屋さんいこ?」

 『女』は左隣で歩く男の右腕に縋り付くように手を差し入れ、猫なで声をあげている。妙にくねくねとした仕草が、妙に「うざったく」銛禅寺は思った。
 その光景を目にしたとき既に――銛禅寺の恋は冷めてしまったのである。
 彼女に恋人がいたことに失望したのではない。銛禅寺はそんな繊細な感性を持ち合わせていない。ただ単に、そんな『女』は好みではなかったのだ。
 殺したいほどの銛禅寺の独占欲は、もうその女に対しては発揮されない。


 銛禅寺の初恋は、何事もなく当たり前に、ただ――終わった。