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#contents ---- *一覧表 **浅間山麓 現在の長野県と群馬県の県境にある浅間山の麓。 浅間山が噴火すると東国に災いが起こるという言い伝えがあり、 天正十年(1582)の二月に噴火した際は、 ちょうど信長が武田征伐軍を起こしたタイミングと重なったため、 武田家中に大きな動揺が走ったという。 **安土 琵琶湖東岸の安土山付近(現在の滋賀県近江八幡市安土町付近)。 織田信長が築城した安土城があったことで有名。 安土城は地下の石倉も併せると七重層で、高さは約32mほど。 四層目までは吹き抜けになっており、 最上階の七層目は内外ともに金が貼られていたという。 城下町には『安土山下町中掟書』が出され、 町民の安全と自由が保障され、市場は楽市とした。 山崎の戦いののち、本丸と天守は焼失。 だが、二の丸などは残っていたという。 **伊賀山中 伊賀(現在の三重県西部)の山奥。 伊賀忍の修行場とされる。 伊賀の修行は非常に厳しいことで知られており、 そのため伊賀忍は身体能力に優れる者が多い。 **岩屋城 筑前国御笠郡(現在の福岡県太宰府市浦城)の城。 大友家臣・高橋紹運が城主として守り、九州統一を目指して 攻め来たる島津軍と激闘を繰り広げた。島津軍が二万から五万と いわれるのに対し、岩屋城の将兵は七百人あまりであったという。 紹運の武名を惜しんで敵味方双方から五度にわたり降伏勧告が 出されたが、紹運はすべて丁重に断り、最後は城兵ことごとく 討死した。紹運の死に敵方の島津も涙したという。 この岩屋城の奮戦で島津軍の侵攻速度が鈍り、 豊臣の援軍が間に合って、大友家は救われた。 **上田城 信濃国小県郡(現在の長野県上田市)の城。 天正十一年(1583)真田昌幸によって築城された。 江戸時代には真田信之が入るが、幕府の命令で城は破却。 信之は松代(現在の長野県長野市松代町松代)に転封される。 その後、この地を治めた仙石政忠が城の再建を申請。 現代に残る名城の姿を復活させた。 **越後 現在の新潟県。 雪深い地であり、その豪雪が謙信の動きにも大きな制約を与えた。 米の名産地で、必然的に酒がうまい。 **江戸 武蔵国(現在の東京都・埼玉県)の地名。現在の東京。 元々は江戸氏の支配地であったが、室町時代に衰亡。 その後、扇谷上杉氏の家老・太田道灌が入り、江戸城を築いた。 北条征伐後、関東移封となった家康が本拠を据え、 以後、目覚ましく発展していく。 **奥州 陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部) の別称。または陸奥国と出羽国(現在の山形県・秋田県の一部)の 総称。後者の場合は一般に「奥羽」と呼ぶ。「みちのく」とも。 都から遠く離れているため、 古来より中央権力にまつろわぬ勢力がたびたび登場した。 **大坂城 摂津国東成郡生玉荘大坂 (現在の大阪府大阪市中央区大阪城)の城。 豊臣秀吉が築城したが、大坂夏の陣によって焼失。 遺構も残っていないため、 秀吉が作った城がどのようなものかはわからない。 大坂の陣ののち、徳川秀忠の手によって 新たな大坂城が誕生したが、火災や落雷などで何度も損傷した。 現代の大坂城はその江戸時代に作られた姿を復元したもの。 **桶狭間 尾張(現在の愛知県西部)の一地域。 織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いで名高い。 現在の愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域と されるが、具体的な地点は諸説あって特定されていない。 『信長公記』では義元は「桶狭間山に本陣を構えた」と 記されているが、この桶狭間山がどこを指すのかも不明である。 また、同じく『信長公記』では 義元が討たれたのは「田楽狭間」だと記述されている。 **小田原城 関東の戦国大名である北条市の本拠地である城。 難攻不落・無敵の城として名高く、 上杉謙信率いる十万を超える大軍の猛攻も凌ぎ切った。 北条軍たちの小田原城への信頼はとても厚い。 **海津城 武田信玄が山本勘助に築城させた武田の城の一つ。 現在では松代城と言われている。 信濃(現在の長野県)の千曲川沿いに築かれ、 三方を山に囲まれているため堅固な造りとなっていた。 初代城主は高坂昌信で、 上杉と争った第四次川中島の戦いにおいて、 重要な拠点として機能している。 築城の名手とされる山本勘助が指揮したとされ、名城と名高い。 **春日山城 越後(現在の新潟県上越市)にあった山城。別名、鉢ヶ峰城。 上越市の春日山山頂に築かれた難攻不落の城。 長尾家の本拠で、上杉謙信の父・長尾為景が大改修を行った。 御館の乱では上杉景勝が入場し、上杉家が会津に転封されると、 堀氏の居城となる。 慶長十二年(1607)、廃城となった。 **関東 室町から戦国時代にかけては、 相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の坂東八ヵ国に 伊豆・甲斐を加えた十ヵ国を指す。 本来は天武天皇が都を守るために設置した三つの関から 東を指す言葉であり、「東国」とほぼ同義。 京を中心とする関西とは様々な面で異なる気風を持つ。 源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、 京を基盤とする政権に対し独立心が旺盛で、 北条家の精神はこれを引き継いだものといえる。 **木津川口 織田と毛利の水軍が激突した河口。 木津川は現在の大阪の淀川下流の支流。 明治時代まで多くの船舶が出入りしていた。 第一次木津川口の戦いでは毛利水軍七~八百艘と、 織田水軍三百艘が激突したとされており、 第二次木津川口の戦いでも大規模な海戦が行われた。 **畿内 京に近い国々を指す。 山城・大和・河内・和泉・摂津の五ヵ国。 政治、経済、文化の中心地であり、 多くの大名がその支配権をめぐってしのぎを削った。 **紀見峠 紀伊国(現在の和歌山県)と河内国(現在の大阪府東部)の国境。 京・大坂から高野山へ向かう参詣道として用いられた 高野街道の中継地でもある。 九度山を脱出して大坂へ向かった真田幸村も、 この峠を越えたものと思われる。 **京 日本の都。 山城(現在の京都府)に位置する。 「四神相応の地」と呼ばれる風水的に優れた地であったことから、 延暦十三年(794)に平安京として遷都され、 以後千年の間、この国の都であり続けた。 中国の都にちなんで「洛陽」とも称され、 京に上ることを「上洛」、京の域内を「洛中」などと呼ぶ。 風水的に優れていても軍事的には攻めやすく守りにくい地形で、 武家政権の中枢が置かれることは少ない。 **九度山 紀伊国(現在の和歌山県)高野山麓の地名。 関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村親子が配流された地。 この地で幸村は十四年を過ごしている。 高野山の入り口。 高野山は女人禁制であるため、女性はここまでしか入れない。 昌幸・幸村は本来、高野山へ盃流であったが、 妻子を伴っていたため九度山に移されたとも。 **上野 現在の群馬県。 名前の由来については、 元々「毛野」とう地域であったものが上下に分割され、 「上毛野(かみつけの)」「下毛野(しもつけの)」となった。 その後、国名が「上野」「下野」に改められたという。 そのため、読み方は「かみつけ」がなまったものだが、 一般的に「こうづけ」ではなく「こうずけ」と書かれる。 **小倉 豊前国(現在の福岡県)の地名。 毛利勝永の父・毛利勝信が九州征伐で功を与えられたことから 与えられた。 勝信はこの地に小倉城を建築している。 **小諸 信濃国(現在の長野県)の地名。 武田信玄が東信濃経営のために小諸城を修築した。 一説には、そのときの縄張りは山本勘助が行ったという。 現在は城跡の懐古園が有名。 **西国 日本の西部地域。 戦国時代においては中国地方のことを指す。 時代によって区域が変化し、 畿内より西を指すこともあれば、 九州のみ、中国地方のみを西国と呼んだ時代もあったという。 **妻女山 信濃国(現在の長野県)にある川中島の小高い山。 八幡原や海津城を見わたすことのできる山で、 第四次川中島の戦いにおいて上杉軍が陣を敷いたとされる。 名前の由来は、上杉軍の将兵が妻女を偲んで涙したという話が 江戸時代に広まり定着したことにある。 **薩摩 現在の鹿児島県西部。 鎌倉時代に守護に任じられて以来、島津家が本拠とする地。 古代日本において、薩摩や大隅に居住する人々は 「隼人(はやと)」と呼ばれた。 薩摩隼人は上下の礼節に厳しく、質実剛健で勇猛果敢とされる。 まさに島津家のイメージどおりだといえる。 **真田の郷 真田本城の周辺にある里山。 自然が豊かで、野生動物も多数存在する。 時折山賊に出くわすこともあるが、 基本的には城下町に近いこともあり、治安が良い。 **真田本城 真田家の根城。別名・松尾城。 真田家は信濃小県郡(現在の長野県東御市)を領地としており、 一時村上義清らに領土を追われたが、武田信玄に従って回復した。 真田本城の城下町には、畑や釣り場があるだけでなく、 地蔵や書物蔵もあり、大都会とは言えないものの 生活に必要なものは揃っていて住み心地の良い場所である。 住民たちも、真田家の人々を好ましく思っているようだ。 **信貴山 河内(現在の大阪府)と大和(現在の奈良県)の国境にある 生駒山系の山。 松永久秀が居城とした信貴山城や、 「信貴山縁起絵巻」で知られる朝護孫子寺がある。 **信濃 現在の長野県。 隣国・甲斐(現在の山梨県)の大名である武田信玄は 信濃侵攻を行い、国衆たちを次々と武田家に従わせた。 こうして信濃の領国化に成功した信玄だったが、 追い出された村上義清らが上杉謙信を頼り、 謙信がそれに応えたことにより、川中島の戦いへと発展した。 **新府 山梨県韮崎市。新府城があったことで有名。 新府城は長篠の戦いののち、穴山信君の献策を受けた 武田勝頼によって築かれた。 真田昌幸が普請奉行だったという説もある。 織田軍の攻勢を防ぐための本拠であったが、 完成から二ヵ月後、武田勝頼は自刃してしまう。 勝頼は新府城を築いた際、躑躅ヶ崎館を破壊。 以降、韮崎を新府、躑躅ヶ崎を古府と言うようになったという。 **駿河 現在の静岡県の一部。 鎌倉幕府が開かれると、 朝廷と幕府を結ぶ東海道の要衝とされ、栄えた。 今川家が台頭し治めるようになったが、 桶狭間での義元の死により、 徳川や武田の侵攻を受けることとなる。 緑茶の名産地。 **諏訪湖畔 長野県諏訪市にある湖畔。 武田信玄が埋葬されたという伝説がある。 『甲陽軍鑑』によれば、信玄が臨終の際に 「自分の遺体を諏訪湖に沈めよ」と遺言したとあるが、 実行されなかったという。 ちなみに信玄の菩提寺は山梨県の恵林寺。 **高天神城 遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)の城。 今川家滅亡後、徳川家の家臣となった小笠原氏が城代。 堅固な山城で、武田信玄の猛攻も防いだ。 のちに武田勝頼が内通策などを駆使して城を奪取。 信玄が落とせなかった城を落としたことで、 勝頼の武名は天下にとどろいたという。 **中国 本州の西部地域。 備中・備後・安芸・周防・長門・出雲・伯耆・因幡の八カ国。 日本海側を山陰、瀬戸内海側を山陽という。 大内家と尼子家が大きな勢力を誇っていたが、 毛利元就の謀略の前に滅び去り、 中国は毛利の席巻するところとなる。 **躑躅ヶ崎館 甲斐国山梨郡古府中(現在の山梨県甲府市古府中)に あった武田の居館。 信玄の父・武田信虎が築き、信虎、信玄、勝頼三代の本拠となる。 三重構造の堀や馬出しなど防御機能はあったが、 あくまでも政治的拠点であり、 有事の際にはこの館を出て 詰城である要害山城に籠もる手はずになっていた。 現在、跡地には武田信玄を祭神とする武田神社が建てられている。 **敦賀 越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)。 畿内と北陸道を結ぶ交通の要衝。大陸への玄関口でもある。 さらには、越前一宮である氣比神宮があることから、 門前町としても栄えた。 天正十七年(1589)に大谷吉継に与えられた。 これは日本海交易の要である敦賀港を秀吉直臣の手に 押さえさせる狙いがあったとされる。 **手取川 加賀国(現在の石川県)に流れる川。 上杉軍と織田軍が戦った手取川の戦いが有名。 天正五年(1577)、能登畠山家の長続連は、 七尾城に攻め寄せた上杉謙信に対抗すべく織田信長に救援を要請。 だが、織田軍が手取川を渡河した時には七尾城はすでに陥落。 危機を悟った勝家は撤退するが、謙信の猛追撃を受け敗れた。 多くの織田の将兵が手取川で溺死し、「上杉に逢うては織田も 手取川、はねる謙信逃げる信長」という落首が残された。 **天目山 甲斐国(現在の山梨県甲州市)の峠。 織田信長の甲州征伐を受け、新府城より落ち延びた武田勝頼が 小山田信茂に裏切られ、最期にたどり着いた地。 この地で勝頼は妻子と共に自害。武田家終焉の地となった。 **戸石城 信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)の城。砥石城とも。 元は真田家の城であったらしいが、一時村上義清に奪われており、 義清はここを拠点に武田信玄をさんざん苦しめた。 のちに真田昌幸の父・幸隆が調略により奪還。 この功により、戸石城を含む真田郷が真田家の手に戻された。 第二次上田合戦では東軍に属した昌幸の子・信之が占拠している。 **東海道 五畿七道(古代日本律令制における行政区画)の一つ。 常陸国(現在の茨城県)から伊賀国(現在の三重県西部)を結ぶ、 本州太平洋側中部の行政区分およびその地域を通る幹線を指す。 現在は後者の意味合いが強い。 北条征伐時の豊臣軍本隊や、 関ヶ原の戦い時の徳川軍本隊は東海道を進んだ。 **東国 あづまのくに。 現在の関東・東海・甲信地方一帯を指す。 特に関東とほぼ同義であるが、 時代によって、該当する範囲の解釈は異なる。 **土佐 現在の高知県。 戦国時代には土佐七雄と呼ばれる国衆が割拠したが、 やがて長宗我部元親が頭角を現し、土佐を統一した。 元親は続いて四国統一を目指したものの、 達成を目前としたところで羽柴秀吉の四国征伐を受け、降伏する。 その後、元親の子・盛親は関ヶ原の戦いで西軍に与して改易。 土佐は山内家の支配するところとなった。 **長篠城 三河国設楽郡(現在の愛知県新城市)長篠の城。 奥平信昌が守るこの城を武田勝頼が攻めたことが、 長篠の戦いの発端となった。 戦後、城は大きく損壊していたため、廃城となっている。 **中山道 東海道とは異なり、内陸経由で江戸と京を結ぶ街道。 武蔵から上野・信濃・美濃・近江・山城と結ぶ。 関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠率いる別働隊は中山道を進み、 途上にある上田城の真田昌幸・幸村を攻撃した。 元々は東山道の一部で、 中山道として整備されたのは江戸時代である。 **名胡桃城 上野(現在の群馬県)の沼田城の支城として作られた城。 豊臣秀吉の裁定で沼田の支配権が北条に定まったとき、 「真田発祥の地である」という真田昌幸の申し分が認められて、 名胡桃は真田領に残された。 これを不服とした北条方の猪俣邦憲は間もなく名胡桃城を奪取。 この行いが秀吉の命に背くものとして、北条征伐の口実となった。 ちなみに名胡桃が真田発祥の地というのは真っ赤な嘘である。 **沼田城 上野国利根郡(現在の群馬県沼田市)沼田の城。 沼田後は河岸段丘で知られる。 北関東の要衝であり、 この地を巡って武田・上杉・北条が激しく争った。 武田滅亡後は真田の重要な拠点となり、 北条と幾度も戦火を交えることとなる。 **肥後 現在の熊本県。 名前の由来は肥前(現在の大分県)と合わせて「火(肥)の国」 から。阿蘇山の活動が古代から活発であったことがうかがわれる。 戦国時代には阿蘇家、相良家が活躍するが、 いずれも島津家の侵攻に屈服した。 豊臣による九州征伐後は佐々成政に与えられたが、 不始末があり間もなく改易。 その後は北半国は加藤清正、南半国は小西行長に与えられた。 **耳川 宮崎県日向市を流れ、日向灘に注ぐ川。 大友家と島津家が激突した「耳川の戦い」が有名。 天正六年(1578)、大友軍は日向を攻め取るべく、 大軍をもって南下。 島津軍は耳川で迎撃するが敗北し、大将の家久は逃走した。 勢いに乗った大友軍は、島津の高城を包囲。 だが、戦前から大友軍は内部分裂を起こしていて、 高城の攻め方を巡って大将同士がもめる始末だった。 島津軍はその隙を突き反撃、大友軍は大敗して敗走する。 その際、雨で増水した耳川に多数の兵が呑み込まれたという。 この戦いで多くの将兵を失った大友家は衰退。 逆に島津家は勢いに乗り、九州の覇者へと躍り出る。 **山崎
#contents ---- *一覧表 **浅間山麓 現在の長野県と群馬県の県境にある浅間山の麓。 浅間山が噴火すると東国に災いが起こるという言い伝えがあり、 天正十年(1582)の二月に噴火した際は、 ちょうど信長が武田征伐軍を起こしたタイミングと重なったため、 武田家中に大きな動揺が走ったという。 **安土 琵琶湖東岸の安土山付近(現在の滋賀県近江八幡市安土町付近)。 織田信長が築城した安土城があったことで有名。 安土城は地下の石倉も併せると七重層で、高さは約32mほど。 四層目までは吹き抜けになっており、 最上階の七層目は内外ともに金が貼られていたという。 城下町には『安土山下町中掟書』が出され、 町民の安全と自由が保障され、市場は楽市とした。 山崎の戦いののち、本丸と天守は焼失。 だが、二の丸などは残っていたという。 **伊賀山中 伊賀(現在の三重県西部)の山奥。 伊賀忍の修行場とされる。 伊賀の修行は非常に厳しいことで知られており、 そのため伊賀忍は身体能力に優れる者が多い。 **岩屋城 筑前国御笠郡(現在の福岡県太宰府市浦城)の城。 大友家臣・高橋紹運が城主として守り、九州統一を目指して 攻め来たる島津軍と激闘を繰り広げた。島津軍が二万から五万と いわれるのに対し、岩屋城の将兵は七百人あまりであったという。 紹運の武名を惜しんで敵味方双方から五度にわたり降伏勧告が 出されたが、紹運はすべて丁重に断り、最後は城兵ことごとく 討死した。紹運の死に敵方の島津も涙したという。 この岩屋城の奮戦で島津軍の侵攻速度が鈍り、 豊臣の援軍が間に合って、大友家は救われた。 **上田城 信濃国小県郡(現在の長野県上田市)の城。 天正十一年(1583)真田昌幸によって築城された。 江戸時代には真田信之が入るが、幕府の命令で城は破却。 信之は松代(現在の長野県長野市松代町松代)に転封される。 その後、この地を治めた仙石政忠が城の再建を申請。 現代に残る名城の姿を復活させた。 **越後 現在の新潟県。 雪深い地であり、その豪雪が謙信の動きにも大きな制約を与えた。 米の名産地で、必然的に酒がうまい。 **江戸 武蔵国(現在の東京都・埼玉県)の地名。現在の東京。 元々は江戸氏の支配地であったが、室町時代に衰亡。 その後、扇谷上杉氏の家老・太田道灌が入り、江戸城を築いた。 北条征伐後、関東移封となった家康が本拠を据え、 以後、目覚ましく発展していく。 **奥州 陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部) の別称。または陸奥国と出羽国(現在の山形県・秋田県の一部)の 総称。後者の場合は一般に「奥羽」と呼ぶ。「みちのく」とも。 都から遠く離れているため、 古来より中央権力にまつろわぬ勢力がたびたび登場した。 **大坂城 摂津国東成郡生玉荘大坂 (現在の大阪府大阪市中央区大阪城)の城。 豊臣秀吉が築城したが、大坂夏の陣によって焼失。 遺構も残っていないため、 秀吉が作った城がどのようなものかはわからない。 大坂の陣ののち、徳川秀忠の手によって 新たな大坂城が誕生したが、火災や落雷などで何度も損傷した。 現代の大坂城はその江戸時代に作られた姿を復元したもの。 **桶狭間 尾張(現在の愛知県西部)の一地域。 織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いで名高い。 現在の愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域と されるが、具体的な地点は諸説あって特定されていない。 『信長公記』では義元は「桶狭間山に本陣を構えた」と 記されているが、この桶狭間山がどこを指すのかも不明である。 また、同じく『信長公記』では 義元が討たれたのは「田楽狭間」だと記述されている。 **小田原城 関東の戦国大名である北条市の本拠地である城。 難攻不落・無敵の城として名高く、 上杉謙信率いる十万を超える大軍の猛攻も凌ぎ切った。 北条軍たちの小田原城への信頼はとても厚い。 **海津城 武田信玄が山本勘助に築城させた武田の城の一つ。 現在では松代城と言われている。 信濃(現在の長野県)の千曲川沿いに築かれ、 三方を山に囲まれているため堅固な造りとなっていた。 初代城主は高坂昌信で、 上杉と争った第四次川中島の戦いにおいて、 重要な拠点として機能している。 築城の名手とされる山本勘助が指揮したとされ、名城と名高い。 **春日山城 越後(現在の新潟県上越市)にあった山城。別名、鉢ヶ峰城。 上越市の春日山山頂に築かれた難攻不落の城。 長尾家の本拠で、上杉謙信の父・長尾為景が大改修を行った。 御館の乱では上杉景勝が入場し、上杉家が会津に転封されると、 堀氏の居城となる。 慶長十二年(1607)、廃城となった。 **関東 室町から戦国時代にかけては、 相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の坂東八ヵ国に 伊豆・甲斐を加えた十ヵ国を指す。 本来は天武天皇が都を守るために設置した三つの関から 東を指す言葉であり、「東国」とほぼ同義。 京を中心とする関西とは様々な面で異なる気風を持つ。 源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、 京を基盤とする政権に対し独立心が旺盛で、 北条家の精神はこれを引き継いだものといえる。 **木津川口 織田と毛利の水軍が激突した河口。 木津川は現在の大阪の淀川下流の支流。 明治時代まで多くの船舶が出入りしていた。 第一次木津川口の戦いでは毛利水軍七~八百艘と、 織田水軍三百艘が激突したとされており、 第二次木津川口の戦いでも大規模な海戦が行われた。 **畿内 京に近い国々を指す。 山城・大和・河内・和泉・摂津の五ヵ国。 政治、経済、文化の中心地であり、 多くの大名がその支配権をめぐってしのぎを削った。 **紀見峠 紀伊国(現在の和歌山県)と河内国(現在の大阪府東部)の国境。 京・大坂から高野山へ向かう参詣道として用いられた 高野街道の中継地でもある。 九度山を脱出して大坂へ向かった真田幸村も、 この峠を越えたものと思われる。 **京 日本の都。 山城(現在の京都府)に位置する。 「四神相応の地」と呼ばれる風水的に優れた地であったことから、 延暦十三年(794)に平安京として遷都され、 以後千年の間、この国の都であり続けた。 中国の都にちなんで「洛陽」とも称され、 京に上ることを「上洛」、京の域内を「洛中」などと呼ぶ。 風水的に優れていても軍事的には攻めやすく守りにくい地形で、 武家政権の中枢が置かれることは少ない。 **九度山 紀伊国(現在の和歌山県)高野山麓の地名。 関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村親子が配流された地。 この地で幸村は十四年を過ごしている。 高野山の入り口。 高野山は女人禁制であるため、女性はここまでしか入れない。 昌幸・幸村は本来、高野山へ盃流であったが、 妻子を伴っていたため九度山に移されたとも。 **上野 現在の群馬県。 名前の由来については、 元々「毛野」とう地域であったものが上下に分割され、 「上毛野(かみつけの)」「下毛野(しもつけの)」となった。 その後、国名が「上野」「下野」に改められたという。 そのため、読み方は「かみつけ」がなまったものだが、 一般的に「こうづけ」ではなく「こうずけ」と書かれる。 **小倉 豊前国(現在の福岡県)の地名。 毛利勝永の父・毛利勝信が九州征伐で功を与えられたことから 与えられた。 勝信はこの地に小倉城を建築している。 **小諸 信濃国(現在の長野県)の地名。 武田信玄が東信濃経営のために小諸城を修築した。 一説には、そのときの縄張りは山本勘助が行ったという。 現在は城跡の懐古園が有名。 **西国 日本の西部地域。 戦国時代においては中国地方のことを指す。 時代によって区域が変化し、 畿内より西を指すこともあれば、 九州のみ、中国地方のみを西国と呼んだ時代もあったという。 **妻女山 信濃国(現在の長野県)にある川中島の小高い山。 八幡原や海津城を見わたすことのできる山で、 第四次川中島の戦いにおいて上杉軍が陣を敷いたとされる。 名前の由来は、上杉軍の将兵が妻女を偲んで涙したという話が 江戸時代に広まり定着したことにある。 **薩摩 現在の鹿児島県西部。 鎌倉時代に守護に任じられて以来、島津家が本拠とする地。 古代日本において、薩摩や大隅に居住する人々は 「隼人(はやと)」と呼ばれた。 薩摩隼人は上下の礼節に厳しく、質実剛健で勇猛果敢とされる。 まさに島津家のイメージどおりだといえる。 **真田の郷 真田本城の周辺にある里山。 自然が豊かで、野生動物も多数存在する。 時折山賊に出くわすこともあるが、 基本的には城下町に近いこともあり、治安が良い。 **真田本城 真田家の根城。別名・松尾城。 真田家は信濃小県郡(現在の長野県東御市)を領地としており、 一時村上義清らに領土を追われたが、武田信玄に従って回復した。 真田本城の城下町には、畑や釣り場があるだけでなく、 地蔵や書物蔵もあり、大都会とは言えないものの 生活に必要なものは揃っていて住み心地の良い場所である。 住民たちも、真田家の人々を好ましく思っているようだ。 **信貴山 河内(現在の大阪府)と大和(現在の奈良県)の国境にある 生駒山系の山。 松永久秀が居城とした信貴山城や、 「信貴山縁起絵巻」で知られる朝護孫子寺がある。 **信濃 現在の長野県。 隣国・甲斐(現在の山梨県)の大名である武田信玄は 信濃侵攻を行い、国衆たちを次々と武田家に従わせた。 こうして信濃の領国化に成功した信玄だったが、 追い出された村上義清らが上杉謙信を頼り、 謙信がそれに応えたことにより、川中島の戦いへと発展した。 **新府 山梨県韮崎市。新府城があったことで有名。 新府城は長篠の戦いののち、穴山信君の献策を受けた 武田勝頼によって築かれた。 真田昌幸が普請奉行だったという説もある。 織田軍の攻勢を防ぐための本拠であったが、 完成から二ヵ月後、武田勝頼は自刃してしまう。 勝頼は新府城を築いた際、躑躅ヶ崎館を破壊。 以降、韮崎を新府、躑躅ヶ崎を古府と言うようになったという。 **駿河 現在の静岡県の一部。 鎌倉幕府が開かれると、 朝廷と幕府を結ぶ東海道の要衝とされ、栄えた。 今川家が台頭し治めるようになったが、 桶狭間での義元の死により、 徳川や武田の侵攻を受けることとなる。 緑茶の名産地。 **諏訪湖畔 長野県諏訪市にある湖畔。 武田信玄が埋葬されたという伝説がある。 『甲陽軍鑑』によれば、信玄が臨終の際に 「自分の遺体を諏訪湖に沈めよ」と遺言したとあるが、 実行されなかったという。 ちなみに信玄の菩提寺は山梨県の恵林寺。 **高天神城 遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)の城。 今川家滅亡後、徳川家の家臣となった小笠原氏が城代。 堅固な山城で、武田信玄の猛攻も防いだ。 のちに武田勝頼が内通策などを駆使して城を奪取。 信玄が落とせなかった城を落としたことで、 勝頼の武名は天下にとどろいたという。 **中国 本州の西部地域。 備中・備後・安芸・周防・長門・出雲・伯耆・因幡の八カ国。 日本海側を山陰、瀬戸内海側を山陽という。 大内家と尼子家が大きな勢力を誇っていたが、 毛利元就の謀略の前に滅び去り、 中国は毛利の席巻するところとなる。 **躑躅ヶ崎館 甲斐国山梨郡古府中(現在の山梨県甲府市古府中)に あった武田の居館。 信玄の父・武田信虎が築き、信虎、信玄、勝頼三代の本拠となる。 三重構造の堀や馬出しなど防御機能はあったが、 あくまでも政治的拠点であり、 有事の際にはこの館を出て 詰城である要害山城に籠もる手はずになっていた。 現在、跡地には武田信玄を祭神とする武田神社が建てられている。 **敦賀 越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)。 畿内と北陸道を結ぶ交通の要衝。大陸への玄関口でもある。 さらには、越前一宮である氣比神宮があることから、 門前町としても栄えた。 天正十七年(1589)に大谷吉継に与えられた。 これは日本海交易の要である敦賀港を秀吉直臣の手に 押さえさせる狙いがあったとされる。 **手取川 加賀国(現在の石川県)に流れる川。 上杉軍と織田軍が戦った手取川の戦いが有名。 天正五年(1577)、能登畠山家の長続連は、 七尾城に攻め寄せた上杉謙信に対抗すべく織田信長に救援を要請。 だが、織田軍が手取川を渡河した時には七尾城はすでに陥落。 危機を悟った勝家は撤退するが、謙信の猛追撃を受け敗れた。 多くの織田の将兵が手取川で溺死し、「上杉に逢うては織田も 手取川、はねる謙信逃げる信長」という落首が残された。 **天目山 甲斐国(現在の山梨県甲州市)の峠。 織田信長の甲州征伐を受け、新府城より落ち延びた武田勝頼が 小山田信茂に裏切られ、最期にたどり着いた地。 この地で勝頼は妻子と共に自害。武田家終焉の地となった。 **戸石城 信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)の城。砥石城とも。 元は真田家の城であったらしいが、一時村上義清に奪われており、 義清はここを拠点に武田信玄をさんざん苦しめた。 のちに真田昌幸の父・幸隆が調略により奪還。 この功により、戸石城を含む真田郷が真田家の手に戻された。 第二次上田合戦では東軍に属した昌幸の子・信之が占拠している。 **東海道 五畿七道(古代日本律令制における行政区画)の一つ。 常陸国(現在の茨城県)から伊賀国(現在の三重県西部)を結ぶ、 本州太平洋側中部の行政区分およびその地域を通る幹線を指す。 現在は後者の意味合いが強い。 北条征伐時の豊臣軍本隊や、 関ヶ原の戦い時の徳川軍本隊は東海道を進んだ。 **東国 あづまのくに。 現在の関東・東海・甲信地方一帯を指す。 特に関東とほぼ同義であるが、 時代によって、該当する範囲の解釈は異なる。 **土佐 現在の高知県。 戦国時代には土佐七雄と呼ばれる国衆が割拠したが、 やがて長宗我部元親が頭角を現し、土佐を統一した。 元親は続いて四国統一を目指したものの、 達成を目前としたところで羽柴秀吉の四国征伐を受け、降伏する。 その後、元親の子・盛親は関ヶ原の戦いで西軍に与して改易。 土佐は山内家の支配するところとなった。 **長篠城 三河国設楽郡(現在の愛知県新城市)長篠の城。 奥平信昌が守るこの城を武田勝頼が攻めたことが、 長篠の戦いの発端となった。 戦後、城は大きく損壊していたため、廃城となっている。 **中山道 東海道とは異なり、内陸経由で江戸と京を結ぶ街道。 武蔵から上野・信濃・美濃・近江・山城と結ぶ。 関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠率いる別働隊は中山道を進み、 途上にある上田城の真田昌幸・幸村を攻撃した。 元々は東山道の一部で、 中山道として整備されたのは江戸時代である。 **名胡桃城 上野(現在の群馬県)の沼田城の支城として作られた城。 豊臣秀吉の裁定で沼田の支配権が北条に定まったとき、 「真田発祥の地である」という真田昌幸の申し分が認められて、 名胡桃は真田領に残された。 これを不服とした北条方の猪俣邦憲は間もなく名胡桃城を奪取。 この行いが秀吉の命に背くものとして、北条征伐の口実となった。 ちなみに名胡桃が真田発祥の地というのは真っ赤な嘘である。 **沼田城 上野国利根郡(現在の群馬県沼田市)沼田の城。 沼田後は河岸段丘で知られる。 北関東の要衝であり、 この地を巡って武田・上杉・北条が激しく争った。 武田滅亡後は真田の重要な拠点となり、 北条と幾度も戦火を交えることとなる。 **肥後 現在の熊本県。 名前の由来は肥前(現在の大分県)と合わせて「火(肥)の国」 から。阿蘇山の活動が古代から活発であったことがうかがわれる。 戦国時代には阿蘇家、相良家が活躍するが、 いずれも島津家の侵攻に屈服した。 豊臣による九州征伐後は佐々成政に与えられたが、 不始末があり間もなく改易。 その後は北半国は加藤清正、南半国は小西行長に与えられた。 **耳川 宮崎県日向市を流れ、日向灘に注ぐ川。 大友家と島津家が激突した「耳川の戦い」が有名。 天正六年(1578)、大友軍は日向を攻め取るべく、 大軍をもって南下。 島津軍は耳川で迎撃するが敗北し、大将の家久は逃走した。 勢いに乗った大友軍は、島津の高城を包囲。 だが、戦前から大友軍は内部分裂を起こしていて、 高城の攻め方を巡って大将同士がもめる始末だった。 島津軍はその隙を突き反撃、大友軍は大敗して敗走する。 その際、雨で増水した耳川に多数の兵が呑み込まれたという。 この戦いで多くの将兵を失った大友家は衰退。 逆に島津家は勢いに乗り、九州の覇者へと躍り出る。 **山崎 摂津国と山城国の国境。 現在の大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町。 明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いが有名。 本能寺で織田信長を討った明智光秀は畿内の地盤固めをしていた。 だが、毛利を攻めていた羽柴秀吉が「中国大返し」を敢行、 ものすごい早さで畿内に戻ってくる。 光秀はやむなく準備も整わぬまま秀吉と激突。 両軍は天王山の山すそなどで一進一退の攻防を繰り広げるが、 羽柴軍の奇襲をきっかけに明智軍は押されはじめ、 本陣の側面を突かれて総崩れとなった。

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