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真田丸戦記/用語 - (2017/02/01 (水) 21:15:27) のソース

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*一覧表
**浅井家
北近江(現在の滋賀県北部)を治める大名家。
元当主は浅井長政である。

元は近江守護である京極家の家臣であったが、
長政の祖父・亮政の代に勢力を伸ばした。
この頃、南近江の六角家との争いで苦境に立たされた際、
同盟した越前(現在の福井県)の朝倉家に
おおいに助けられている。
この朝倉との深い縁が、浅井の前途を暗いものとした。

**朝倉家
越前(現在の福井県)を治める大名家。
元当主は朝倉義景である。

朝倉家は本来、但馬(現在の兵庫県北部)を本拠としており、
越前朝倉家はそこから分かれた系統である。
七代孝景の代に応仁の乱で活躍、勢力を伸ばした。

十一代義景の代に足利義昭に頼られ、
上洛を要請されるがこれに応えず。失望した義昭は
織田信長を頼り、信長に大義名分を与えることとなった。

**伊賀忍
伊賀流の忍者。

伊賀(現在の三重県西部)を本拠地とした。
甲賀忍が主君への忠節を重んじるのに対し、伊賀忍は金銭の
契約以上のことは求めないとされる。また、要請があれば
雇い主が敵同士でも双方に忍者を派遣したという。
本能寺の変の際、堺から脱出する徳川家康を助け
(神君伊賀越え)、この功から徳川に重用された。

最も有名なのは服部半蔵だが、史実では半蔵は忍者ではない。

**今川家
駿河・遠江(ともに現在の静岡県の一部)を治める大名家。
現当主は今川氏真である。
足利将軍家の親族であり、宗家の相続権を持つ名門。

武田家・北条家と三国同盟を結び、氏真の父・義元の時代には
最盛期を誇ったが、義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると
たちまち凋落。従属していた徳川家康に離反され、
三河(現在の愛知県東部)の支配権も失った。
このことから武田との関係も微妙となるが、
北条とは固い繋がりを保持している。

**上杉家
越後(現在の新潟県)を治める大名家。
現当主は上杉謙信である。義を重んじる家風。
長きに渡る川中島の戦いも信玄に信濃(現在の長野県)を
追われた豪族に助けを求められた謙信が
これに応えたことで幕を開けた。

実は越後は内乱が多く、家臣の謀反が相次ぐ地域であったが、
謙信の神がかった強さとカリスマ性でまとめ上げられていた。

**上田合戦
真田昌幸が居城・上田城周辺で徳川の大軍を撃退した二度の戦い。

◆第一次上田合戦
天正十三年(1585)、徳川から離反して上杉についた真田を
討伐するため、徳川軍が攻め寄せた。昌幸は地の利を生かした
戦術で数倍の敵を撃退。真田の名を天下にとどろかせた。

◆第二次上田合戦
慶長五年(1600)、関ヶ原へ向かう徳川秀忠率いる別働隊を
足止め、ついに本戦に間に合わせなかった。

**オウギ
生薬の一種。漢字で書くと「黄耆」。
強壮薬として効果がある。

信玄の死に気落ちしている勝頼を元気づけようと考えた幸村が
薬の材料として採取してきた。

**大坂牢人衆
大坂の陣に当たって、豊臣方について戦った牢人たちの総称。

諸大名は豊臣恩顧の者たちも含め、皆、徳川の威を恐れて
豊臣方に味方しようとはしなかったが、関ヶ原の戦い以降没落し、
牢人となった武将たちは身を立てる最後の機会と考えて
大坂に参じた(当然、単に報酬目当ての食い詰め者も多かった)。

中でも有名なのが真田幸村・後藤又兵衛・明石全登・
長宗我部盛親・毛利勝永の五人で、大坂城五人衆と呼ばれる。

**大友家
豊後(現在の大分県)を治める大名。
現当主は義統であるが、実権は父・宗麟(義鎮)が
握り続けており、二元政治状態となっている。

鎌倉時代から続く名門。
宗麟の代には立花道雪など有力な家臣にも恵まれ、大友家は
北九州に大きな版図を誇った。しかし、やがて宗麟は家中に
不和を招き、今山の戦いや耳川の戦いで龍造寺・島津に大敗。
急速に勢力を縮小させていく。豊臣秀吉を頼ることで滅亡は
免れたが、以後、九州の雄たる地位を取り戻すことはなかった。

**お地蔵様
地蔵菩薩が親しみをもって呼ばれた名称。

地蔵菩薩はサンスクリット語でクシティ・ガルバ。
無限の慈悲を持ち、人々を苦悩から救うとされる。
特に子どもの守り神としての面が強い。
日本では同祖神と習合し、路傍の石像としてよく見られる。

真田本城のお地蔵様にお供えをすると、
霊験により別の何かに成り代わるという。
村松殿「あらあら。不思議なこともあるものですね」

**織田家
尾張(現在の愛知県西部)を治める大名家。
現当主は織田信長である。

元は尾張守護代の家老職に過ぎなかったが、次第に頭角を現し、
信長の父・信秀の代に大きく勢力を伸ばした。
信秀の急死後、うつけと評判であった信長を不安視して
一時家中が乱れるが、信長はこれをまとめ上げ、
さらに尾張を統一。
今川義元を桶狭間で破り、天下へと大きく躍進していく。

**御館の乱
天正六年(1578)、上杉謙信の後継を巡り、
謙信の二人の養子、上杉景勝と上杉景虎が激突した戦い。

同年三月に謙信が急死した際、後継者が明確に定められていなかっ
たため、跡目争いが勃発した。最終的に景勝が勝利したが、
この内乱で上杉家はおおいに衰退し、景勝側に加担したことで
北条と手切れとなった武田家もさらに苦しい立場となった。

ちなみに御館とは関東管領・上杉憲政を謙信が迎えたときに用意
した居館。春日山城を景勝が押さえたため、景虎は御館に入った。

**鍛冶屋
武器を購入・強化することができる施設。
町に一軒はある基本施設であり、
戦国の世においては欠かせない場所である。
腕のよい鍛冶職人がいることが、
町の価値向上につながるといっても過言ではない。

**家督
その家の地位や財産、つまり家そのものを継ぐ権利のこと。
基本的に嫡子が継ぐことになっているが、
後継者が定まらぬまま、先代が死んでしまうなど
きちんとした相続が行わわない場合、
家督相続争いが発生することが多い。

**関白
天皇に代わって政治を行う役職。
実質的に公家の最高位に当たる。

天正十五年(1585)七月、羽柴秀吉は朝廷での
関白を巡る争いに介入し、強引に自ら関白に就任した。

**丸薬
飲みやすいよう、練り合わせて球状にした薬剤。
「○○○丸」という名称が多い。

**国衆
その国の有力名主。国人領主とも。
幕府や朝廷から任じられた領主とは異なる、在地の勢力。
鎌倉時代には支配勢力に反抗する「悪党」とも呼ばれた。
戦国時代に入り守護の弱体化が進むとさらに独立性を強化。
戦国大名の郎党となるものが多い一方で、
大名格にまで成り上がるものも現れた。

真田に限らず、長宗我部や毛利なども元は国衆である。

**熊
城下町の外に時折現れる野生動物。

見た目は怖いが、実はおとなしい性格らしい。
どこかで出会う度に絆を深められる…かもしれない。

**黒田家
筑前(現在の福岡県)を治める大名家。
現当主は黒田官兵衛である。

官兵衛は播磨(現在の兵庫県南西部)の豪族・小寺氏の家臣に
過ぎなかったが、羽柴秀吉に見出され、軍師として
その天下取りにおおいに貢献した。
しかし、その働きに比べて領地は大きくはなかった。
一説には切れ者過ぎる官兵衛を
秀吉が警戒していたためだといわれる。

**君側の奸
君主の側に侍り、
君主を意のままに操って悪事をなす奸臣のこと。

関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康の建前はあくまで
「君側の奸である石田三成を除き、豊臣家を守ること」であり、
だからこそ豊臣恩顧の諸大名も家康に従った。

無論、三成からすれば、五大老筆頭の地位にありながら
天下への野心を露わにする家康の方が君側の奸であった。

**甲賀忍
甲賀流の忍者。

近江国(現在の滋賀県南部)を本拠地とした。
「惣」と呼ばれる自治組織を持ち、
合議制で郡の運営を定めていたという。
伊賀忍とは異なり忠義を重んじ、南近江を治める六角家に従って
織田信長とも戦った。結果、大きな痛手をこうむることとなる。

ちなみに甲賀は正しくは「こうか」と読む。

**甲相駿同盟
武田家・今川家・北条家の間で結ばれた三国同盟。
甲は甲斐(現在の山梨県、武田の本拠地)、
相は相模(現在の神奈川県、北条の本拠地)、
駿は駿河(現在の静岡県、今川の本拠地)のこと。

同盟締結には今川義元の師・太原雪斎の功が大きかったとされる。
この同盟により武田は信濃攻略、北条は関東支配、
今川は東海への侵攻を後顧の愛いなく行えるようになった。
しかし、義元が桶狭間で敗死したことで同盟にも亀裂が入る。

**子飼い
子供のときから引き取って養育すること。
または早くから教育や指導を行うこと。

豊臣秀吉にとっては、加藤清正や福島正則、石田三成らが
該当する。大谷吉継や藤堂高虎は言葉の厳密な意味では
子飼いとは言えない。

武田信玄に小姓時代から目をかけられ、
薫陶を受けた真田昌幸も信玄子飼いと言える。

**雑賀衆
紀伊国(現在の和歌山県)北西部の地侍を中心とした傭兵集団。
多数の鉄砲で武装し、高い軍事力を誇った。
ほぼ一貫して織田信長の敵対勢力に与して立ち回り、
信長をさんざん苦しめた。
その結果、紀州征伐を招き、
仲間を多数殺された棟梁・雑賀孫市は復讐の鬼と化す。

なお、「雑賀孫市」は雑賀衆の棟梁が代々継承する名前である。

**真田家
武田家に仕える、信濃の国衆の一族。
信玄が当主になってから武田家に仕え、
信玄の父・武田信虎に奪われた所領を回復した。

家紋の六文銭は、幸隆が身命を賭して武田家に仕えるという
覚悟を示すために使用したと考えられている。
六文銭は三途の川の渡し賃とされ、
戦場に死を覚悟して挑む真田の心意気がうかがえる。

**真田屋敷
真田本城にある真田家の屋敷。
昌幸ら一族が居住する。

信之・幸村はともかく、娘の村松殿は立場上、
この屋敷からあまり出るものではないが、
気軽に城下に繰り出している。

村松殿「うふふ。だって屋敷に閉じこもっては気詰まりですもの」

**山賊
盗賊の一種。野盗。山中に拠点を構え、旅人などを襲撃した。
自由な交通の妨げになるため、
大名や領主は取り締まりに腐心した。

落ちぶれた武士が山賊に身を落とすことも多く、
領主の統制の及ばない集落では非常な脅威となった。

**賤ヶ岳七本槍
賤ヶ岳の戦いで活躍したとされる、羽柴秀吉配下の七人の武将。
加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・
糟屋武則・片桐且元が該当する。
実際には石田三成や大谷吉継らも含めて、若手十四人の活躍が
記録されている。「七本槍」は語呂がよかったので使われた、
いわばキャッチコピー。譜代の家臣を持たない秀吉が配下の活躍を
強調するために作り出した虚名という面が強く、清正や正則は
七本槍というくくりで見られるのを嫌ったともいわれている。

ちなみに七本槍では平野長泰だけが大名になっていない。

**忍び
忍者。大名や領主に仕え、
破壊活動や諜報活動、暗殺などを生業とした者たち。
伊賀、甲賀、風魔などが有名だが、こうしたプロ集団から
野盗と大差ない者まで、様々な忍びが暗躍した。

名称は地域によって、透破(すっぱ)、乱波(らっぱ)、
軒猿(のきざる)など多種多様。
女性の忍びは「くノ一」とも呼ばれる。
これは「女」という字を三文字に解体したもの。

**島津家
薩摩・大隅(共に現在の鹿児島県)を治める大名。
現当主は義久である。

大友家同様、鎌倉時代から続く名門。
元々は日向(現在の宮崎県)も含めた三州の守護であったが、
大隅と日向はたびたび他家に奪われている。義久の代に
日向の伊東家を倒して三州統一を果たし、以後も耳川の戦いで
大友家の大軍を撃破、さらに沖田畷の戦いで龍造寺家をも破り、
九州最大の勢力となる。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け、
激しい抵抗を見せたものの降伏。薩摩・大隅の安堵に留まった。

**銃眼扉
銃眼を設けた扉。

銃眼とは敵を射撃するために壁や砦などに空けた穴のこと。
元々は弓矢を構えるために使った。
狭間ともいう。

**銃眼砦
銃眼を設けた砦。

銃眼とは敵を射撃するために壁や砦などに空けた穴のこと。
元々は弓矢を構えるために使った。
狭間ともいう。

**上洛
京へ入ることを指す。
「洛」は中国の都である洛陽のこと。
平安京を洛陽になぞらえたことから来ている。

乱世にあっては、日本の都である京へ軍勢をもって入ることは、
すなわち天下取りを表した。
一方、都を制した政権がある場合は、
上洛はその政権への従属を示す行為となる。
豊臣政権下では北条は秀吉の上洛命令を拒み続け、反意を表した。

**征夷大将軍
本来は文字どおり「夷(えびす)」を征伐する役割を負った職。
夷とは古代日本において、主に東国の朝廷にまつろわぬ者たち。
作戦行動中は天皇の代理人として全権を預かる身分であったため、
やがて武家の最高司令官たる権威を持つようになった。
この名目を最大限利用したのが源頼朝である。
頼朝は朝廷の臣であることを保ちつつ、武家の棟梁として
相対的に独立した政権を樹立した。以後、
征夷大将軍を長とする武家政権が七百年あまり続くことになる。

なお、征夷大将軍になれるのは源氏だけというのは俗説である。

**関ヶ原の戦い
慶長五年(1600)九月十五日に美濃国(現在の岐阜県)
関ヶ原で行われた天下分け目の大戦。
徳川家康率いる東軍が、石田三成らを中心とする西軍を打ち破り、
徳川の天下を決定づけた。

後年、両軍の布陣を見たドイツ軍将校は西軍勝利と断じたという。
それだけ当初の戦況としては西軍有利であったわけだが、
小早川秀秋の裏切りに代表される西軍の不和
(あるいは家康の周到さ)が明暗を分けた。

**太閤
関白を子供に譲った人のことをいう。

しかし、豊臣秀吉のイメージがあまりに強いため、
現在では太閤といえば秀吉を指す言葉とほぼ同義になっている。

**大名
武家社会において、広域にわたる支配領域を持つ領主。

室町時代には、朝廷よりその国の軍事・行政を司るよう任命された
「守護」が領地の私物化を進め、「守護大名」となるものが
続々現れた。代表的なものが武田家や今川家、島津家などである。
戦国時代に入ると、下剋上の末、守護に成り代わり実力で大名に
なる者たちが現れた。これが「戦国大名」である。
織田家や北条家などが該当する。
守護大名も多くは戦国大名化し、互いにしのぎを削った。
ちなみに江戸時代になると一万石以上を領する者を大名と呼ぶ。

**武田家
甲斐(現在の山梨県)、信濃(現在の長野県)を治める大名家。
現当主は武田信玄である。

川中島において信濃を巡り上杉家と幾度も争っている。
関東を治める北条家、駿河(現在の静岡県の一部)を治める
今川家とは同盟関係にある。

**伊達家
陸奥国南部(現在の宮城県)を中心とする一帯を治める大名家。
現当主は政宗である。

伊達家は鎌倉時代よりの名門で、一時は陸奥の覇権を握る勢いで
あったが、政宗の祖父・晴宗と曾祖父・稙宗の間で起きた
天文の乱で勢力を衰退させていた。
政宗が十八歳で家督を継ぐと、積極的な対外政策に出る。
この動きは周囲の反発を買い、たびたび窮地に陥るが、ついには
奥州の覇者たる地位を築いた。しかしその活躍は豊臣秀吉の意向に
逆らうものであったため、新たな危機を招き入れることとなった。

**反物
一反に仕上げてある織物。
大人の着物一着分を仕立てるのに必要十分な分量だとされる。

また、単に和服用織物の総称であることも。呉服。

**弾薬
弾丸とそれを発射するための火薬の総称。
たまぐすり、とも呼ばれる。

現代では弾丸と火薬を一体化した実包が一般的だが、
鉄砲が使われ始めた頃は別々に用意され、
射撃時に二つを装填していた。

**茶屋
休憩所の一種。路傍で休憩する人に茶を提供する。茶店とも。
縁台に赤い布をかけ、赤い野点傘を差すのが定番。

思いがけない出会いがあることも。

**中国大返し
本能寺の変を知った羽柴秀吉が敢行した、歴史的な大行軍。
当時、秀吉は毛利討伐を命じられ、
備中(現在の岡山県西部)高松城の攻略に当たっていた。
本能寺の変の一日後、秀吉はその情報を得る。
一説には光秀から毛利へ差し向けられた密使を捕らえたともいう。
信長横死の報せに愕然としつつも、秀吉は直ちに毛利と和睦、
信長の敵討ちを掲げて約二百キロの距離を十日間で駆け戻った。
この迅速な動きは光秀の予想を超え、地盤固めも整わなかった
光秀は山崎の戦いで敗北。信長の仇討ちを成し遂げた秀吉は、
一気に織田家で最大の発言力を得ることとなる。

**釣り場
川のほとりにある、そこそこ整備された魚を釣る場所。
釣りダンゴが常備されているが、
誰が補充しているのかわからない。
釣り場近くにいる釣り名人は、
必ず爆釣をすることができるという噂。

**出丸
本城から張り出して築かれた曲輪。出曲輪。出城とも。
本城の弱点を補う目的で作られることが多い。

最も有名な例が、大坂冬の陣で真田幸村が作った真田丸である。

**徳川家
三河(現在の愛知県東部)を治める大名家。
現当主は徳川家康である。

家康の父・広忠の代に内紛から弱体化、隣国の大大名・今川家の
傘下に入る。家康は今川の人質として幼少から苦労したが、
桶狭間の戦いで今川義元が討たれたのを機に独立。
以後、織田家の盟友として確固たる地位を築く。

かつて内紛があったとはいえ、基本的には忠義に篤い家臣が多い。
三河武士といえば、誰もが義理堅く勇猛な人物を想像するほど。

**豊臣家
「豊臣」を姓とする大名家。
現当主は豊臣秀吉である。

豊臣姓は、天正十四年(1586)に羽柴秀吉が朝廷から賜った。
姓または姓氏とは家計を表す名称であり、古くから「源平藤橘」の
四姓が名族とされる。秀吉は元々「藤氏(藤原氏)」を名乗って
いたが、秀吉は偉大な人物であるから、四姓に匹敵する新たな姓が
与えられるにふさわしい、と称して豊臣を創設した。
ちなみに姓と苗字は異なる。「羽柴」は苗字であり、
秀吉は羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したわけではない。

**縄張り
城の設計を表す。
櫓や曲輪、門などをどこに配置するか、といったことを示す。
城を建てる上で最も重要になる要素。
上田城が堅城であったのは、
真田昌幸の縄張りが優れていたからである。

**南蛮
戦国時代では、ポルトガルやスペインからもたらされた文物や
同国人を差す。
単に新規で珍しいものを指して使われる場合も。

ちなみに北欧系の人々は「紅毛」と呼ばれる。

**荷駄
馬や人が運ぶ荷物のこと。
合戦の際に武器や食料、その他道具等々を運ぶ役割。

戦場でもよく見かけることになるが、荷駄隊を発見したら
まずは近くに向かってみるとよいことがありそうだ。
中には金銀財宝を積んだ荷駄もいるかもしれない。

**幕府
武家による政権のこと。
征夷大将軍を首長とするのが一般的。

元々は征討軍などの現地の陣営を指したもので、
鎌倉幕府以降も政府の居館を表す言葉だった。
観念的な組織として幕府という言葉を使うようになったのは
江戸時代中期以降とされる。

**畑
そこそこ良い土の畑。
種を植えれば作物が育つ。
畑近くの畑名人は昼夜を問わず踊っており、
その踊りで豊作を呼んでいるとの噂。

**兵糧
合戦時の軍団の食料のこと。日本では主に米。

従来は、出陣時に兵糧は自前で用意するのが兵の義務であったが、
戦国時代後期、兵農分離が進むにつれて平時からの備蓄や
組織的な徴集・輸送などが行われるようになった。
「腹が減っては戦はできぬ」というとおり、
こうした兵站作業は合戦を支える重要な役割であり、
石田三成などの官僚が当たった。
しかし地味な功績ゆえに前線で戦う武将たちの理解を得がたく、
両者の溝を生む要因ともなった。

**笛
甲高い音が出る笛。人を呼ぶのに適している。

お役目に励もうとする幸村に対し、
姉の村松殿が危険な目に遭うようなことがあったら、
これを吹いて人に知らせるようにと渡した。

**奉行
武家の職名。
政務を分担して受け持つ担当官。

豊臣政権下では石田三成らの五奉行が有名。
ただし、当時特に「五奉行」という名称があったわけではなく、
人数も五人と定まっていたわけではない。

**北条家
相模(現在の神奈川県)を治める大名家。
現当主は北条氏康である。

上杉謙信の攻撃さえ退けた難攻不落の名城・小田原城を本拠地とし
武蔵(現在の東京都・埼玉県)、下総(現在の千葉県)、
上野(現在の群馬県)等、関東に広く勢力を伸ばす。

「関東の民を守る」ことを第一としており、天下への野心は薄いが
その分、侵攻してくる外敵への敵愾心は強い。
また、一族間の繋がりが非常に厚いことでも知られる。

**三方ヶ原の戦い
元亀三年(1573)、
武田信玄と徳川家康が三方ヶ原で激突した戦い。

三方ヶ原は遠江国敷知郡(現在の静岡県浜松市北区)の一地域。
上洛のため西上作戦を進めていた信玄は、家康の居城・浜松城を
無視して進もうとしたが、家康が家臣の反対を押し切って
これに挑んだ。応戦した武田軍は徳川軍をさんざんに打ち破り、
家康は逃げ帰る途中でたいへんな粗相をした。
合戦の際、気候的には通常考えられないが、
雪が降っていたという。

**三日天下
明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒し、天下を取ったが、
中国大返しを敢行した羽柴秀吉に瞬く間に討ち取られた。
このことから、
非常に短い期間しか政権や権力を保持できないことをいう。

ちなみに「三日」とはごく短い期間を指す用語であり
(例:三日坊主)、
実際に光秀が天下を取っていたのが三日間というわけではない。
本能寺の変から山崎の戦いまで十一日間である。

**密偵
相手の内情を密かに探り調べること。
その実行者そのものを指す言葉でもある。スパイ。

戦国時代では主に忍者が請け負ったが、
寝返ったふりをして密偵を働く武将や
婚姻先の情報を実家にもたらす姫も多数存在した。

**名代
ある人の代わりを務めること。
真田昌幸は武田勝頼の名代として、御館の乱に参加した。

もちろん幸村が茶々に対して
「真田昌幸の名代」と称したのは単なる自称であり
そんな権限は与えられていない。

**毛利家
中国地方ほぼ全域を治める大大名。
現当主は輝元である。

大江広元を祖とする名門だが、
戦国時代には安芸(現在の広島県)の国衆に過ぎなかった。
その勢力を飛躍的に拡大させたのが、輝元の祖父・元就である。
元就は尼子家・大内家という二大勢力の間で巧みに立ち回りつつ、
謀略を駆使してこれらを打倒、中国地方をほぼ制した。
元就の子・隆元は早世したため輝元が後を継ぎ、隆元の弟である吉
川元春と小早川隆景が輝元を支える「両川体制」が敷かれている。

**矢沢家
信濃(現在の長野県)の地侍。

諏訪氏の流れを汲み、隣接する真田家とは敵対関係にあったが、
昌幸の叔父・頼綱が養子に入ることでこれを解消した。
以後は主に沼田を守り、北条の侵攻をたびたび撃退。
頼綱の子・頼幸は関ヶ原以後、信之に従い、
矢沢家は明治まで真田家の筆頭家老格として存続した。

**山内家
土佐(現在の高知県)を治める大名家。
当主は山内一豊である。

一豊は織田家、そして豊臣家に仕えて身を立てたが、
関ヶ原の戦いにおいて真っ先に居城・掛川城を
徳川家康に差し出した功が認められ、
長宗我部家が改易になった後の土佐一国を与えられた。

山内家は長宗我部家旧臣を「郷士」として差別した。その軋轢は
幕末まで及び、郷士から坂本龍馬をはじめ多くの志士を生んだ。

**与力
下級武士や大名が有力武将の組下につくこと。

真田昌幸と徳川家康の関係は「与力大名」と呼ばれるもので、
軍団活動時に昌幸は家康の指図を受ける立場となる。
豊臣家臣という意味ではあくまで同等であり、
真田が徳川の家来になったわけではない。

**よろず屋
様々なものを商う店。

大坂のよろず屋には評判の看板娘がいる。

**練兵
兵を訓練すること。

**和議
戦を収め、和睦をするための協議。

対等の条件で結ばれるとは限らず、
実質的な降伏勧告であることも多い。