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真田丸戦記/地名 - (2017/01/29 (日) 09:13:29) のソース

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*一覧表
**浅間山麓
現在の長野県と群馬県の県境にある浅間山の麓。

浅間山が噴火すると東国に災いが起こるという言い伝えがあり、
天正十年(1582)の二月に噴火した際は、
ちょうど信長が武田征伐軍を起こしたタイミングと重なったため、
武田家中に大きな動揺が走ったという。

**安土
琵琶湖東岸の安土山付近(現在の滋賀県近江八幡市安土町付近)。
織田信長が築城した安土城があったことで有名。

安土城は地下の石倉も併せると七重層で、高さは約32mほど。
四層目までは吹き抜けになっており、
最上階の七層目は内外ともに金が貼られていたという。
城下町には『安土山下町中掟書』が出され、
町民の安全と自由が保障され、市場は楽市とした。
山崎の戦いののち、本丸と天守は焼失。
だが、二の丸などは残っていたという。

**伊賀山中
伊賀(現在の三重県西部)の山奥。

伊賀忍の修行場とされる。
伊賀の修行は非常に厳しいことで知られており、
そのため伊賀忍は身体能力に優れる者が多い。

**岩屋城
筑前国御笠郡(現在の福岡県太宰府市浦城)の城。

大友家臣・高橋紹運が城主として守り、九州統一を目指して
攻め来たる島津軍と激闘を繰り広げた。島津軍が二万から五万と
いわれるのに対し、岩屋城の将兵は七百人あまりであったという。
紹運の武名を惜しんで敵味方双方から五度にわたり降伏勧告が
出されたが、紹運はすべて丁重に断り、最後は城兵ことごとく
討死した。紹運の死に敵方の島津も涙したという。
この岩屋城の奮戦で島津軍の侵攻速度が鈍り、
豊臣の援軍が間に合って、大友家は救われた。

**上田城
信濃国小県郡(現在の長野県上田市)の城。

天正十一年(1583)真田昌幸によって築城された。
江戸時代には真田信之が入るが、幕府の命令で城は破却。
信之は松代(現在の長野県長野市松代町松代)に転封される。
その後、この地を治めた仙石政忠が城の再建を申請。
現代に残る名城の姿を復活させた。

**越後
現在の新潟県。

雪深い地であり、その豪雪が謙信の動きにも大きな制約を与えた。

米の名産地で、必然的に酒がうまい。

**江戸
武蔵国(現在の東京都・埼玉県)の地名。現在の東京。

元々は江戸氏の支配地であったが、室町時代に衰亡。
その後、扇谷上杉氏の家老・太田道灌が入り、江戸城を築いた。

北条征伐後、関東移封となった家康が本拠を据え、
以後、目覚ましく発展していく。

**奥州
陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部)
の別称。または陸奥国と出羽国(現在の山形県・秋田県の一部)の
総称。後者の場合は一般に「奥羽」と呼ぶ。「みちのく」とも。

都から遠く離れているため、
古来より中央権力にまつろわぬ勢力がたびたび登場した。

**大坂城
摂津国東成郡生玉荘大坂
(現在の大阪府大阪市中央区大阪城)の城。

豊臣秀吉が築城したが、大坂夏の陣によって焼失。
遺構も残っていないため、
秀吉が作った城がどのようなものかはわからない。
大坂の陣ののち、徳川秀忠の手によって
新たな大坂城が誕生したが、火災や落雷などで何度も損傷した。

現代の大坂城はその江戸時代に作られた姿を復元したもの。

**桶狭間
尾張(現在の愛知県西部)の一地域。
織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いで名高い。

現在の愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域と
されるが、具体的な地点は諸説あって特定されていない。
『信長公記』では義元は「桶狭間山に本陣を構えた」と
記されているが、この桶狭間山がどこを指すのかも不明である。
また、同じく『信長公記』では
義元が討たれたのは「田楽狭間」だと記述されている。

**小田原城
関東の戦国大名である北条市の本拠地である城。
難攻不落・無敵の城として名高く、
上杉謙信率いる十万を超える大軍の猛攻も凌ぎ切った。
北条軍たちの小田原城への信頼はとても厚い。

**海津城
武田信玄が山本勘助に築城させた武田の城の一つ。
現在では松代城と言われている。
信濃(現在の長野県)の千曲川沿いに築かれ、
三方を山に囲まれているため堅固な造りとなっていた。

初代城主は高坂昌信で、
上杉と争った第四次川中島の戦いにおいて、
重要な拠点として機能している。
築城の名手とされる山本勘助が指揮したとされ、名城と名高い。

**春日山城
越後(現在の新潟県上越市)にあった山城。別名、鉢ヶ峰城。

上越市の春日山山頂に築かれた難攻不落の城。
長尾家の本拠で、上杉謙信の父・長尾為景が大改修を行った。
御館の乱では上杉景勝が入場し、上杉家が会津に転封されると、
堀氏の居城となる。

慶長十二年(1607)、廃城となった。

**関東
室町から戦国時代にかけては、
相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の坂東八ヵ国に
伊豆・甲斐を加えた十ヵ国を指す。

本来は天武天皇が都を守るために設置した三つの関から
東を指す言葉であり、「東国」とほぼ同義。
京を中心とする関西とは様々な面で異なる気風を持つ。
源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、
京を基盤とする政権に対し独立心が旺盛で、
北条家の精神はこれを引き継いだものといえる。

**木津川口
織田と毛利の水軍が激突した河口。

木津川は現在の大阪の淀川下流の支流。
明治時代まで多くの船舶が出入りしていた。

第一次木津川口の戦いでは毛利水軍七~八百艘と、
織田水軍三百艘が激突したとされており、
第二次木津川口の戦いでも大規模な海戦が行われた。

**畿内
京に近い国々を指す。
山城・大和・河内・和泉・摂津の五ヵ国。

政治、経済、文化の中心地であり、
多くの大名がその支配権をめぐってしのぎを削った。

**紀見峠
紀伊国(現在の和歌山県)と河内国(現在の大阪府東部)の国境。

京・大坂から高野山へ向かう参詣道として用いられた
高野街道の中継地でもある。
九度山を脱出して大坂へ向かった真田幸村も、
この峠を越えたものと思われる。

**京
日本の都。
山城(現在の京都府)に位置する。

「四神相応の地」と呼ばれる風水的に優れた地であったことから、
延暦十三年(794)に平安京として遷都され、
以後千年の間、この国の都であり続けた。
中国の都にちなんで「洛陽」とも称され、
京に上ることを「上洛」、京の域内を「洛中」などと呼ぶ。
風水的に優れていても軍事的には攻めやすく守りにくい地形で、
武家政権の中枢が置かれることは少ない。

**九度山
紀伊国(現在の和歌山県)高野山麓の地名。

関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村親子が配流された地。
この地で幸村は十四年を過ごしている。

高野山の入り口。
高野山は女人禁制であるため、女性はここまでしか入れない。
昌幸・幸村は本来、高野山へ盃流であったが、
妻子を伴っていたため九度山に移されたとも。

**上野
現在の群馬県。

名前の由来については、
元々「毛野」とう地域であったものが上下に分割され、
「上毛野(かみつけの)」「下毛野(しもつけの)」となった。
その後、国名が「上野」「下野」に改められたという。
そのため、読み方は「かみつけ」がなまったものだが、
一般的に「こうづけ」ではなく「こうずけ」と書かれる。

**小倉
豊前国(現在の福岡県)の地名。

毛利勝永の父・毛利勝信が九州征伐で功を与えられたことから
与えられた。
勝信はこの地に小倉城を建築している。

**小諸
信濃国(現在の長野県)の地名。

武田信玄が東信濃経営のために小諸城を修築した。
一説には、そのときの縄張りは山本勘助が行ったという。

現在は城跡の懐古園が有名。

**西国
日本の西部地域。
戦国時代においては中国地方のことを指す。

時代によって区域が変化し、
畿内より西を指すこともあれば、
九州のみ、中国地方のみを西国と呼んだ時代もあったという。

**妻女山
信濃国(現在の長野県)にある川中島の小高い山。

八幡原や海津城を見わたすことのできる山で、
第四次川中島の戦いにおいて上杉軍が陣を敷いたとされる。

名前の由来は、上杉軍の将兵が妻女を偲んで涙したという話が
江戸時代に広まり定着したことにある。

**薩摩
現在の鹿児島県西部。
鎌倉時代に守護に任じられて以来、島津家が本拠とする地。

古代日本において、薩摩や大隅に居住する人々は
「隼人(はやと)」と呼ばれた。
薩摩隼人は上下の礼節に厳しく、質実剛健で勇猛果敢とされる。
まさに島津家のイメージどおりだといえる。

**真田の郷
真田本城の周辺にある里山。
自然が豊かで、野生動物も多数存在する。

時折山賊に出くわすこともあるが、
基本的には城下町に近いこともあり、治安が良い。

**真田本城
真田家の根城。別名・松尾城。
真田家は信濃小県郡(現在の長野県東御市)を領地としており、
一時村上義清らに領土を追われたが、武田信玄に従って回復した。

真田本城の城下町には、畑や釣り場があるだけでなく、
地蔵や書物蔵もあり、大都会とは言えないものの
生活に必要なものは揃っていて住み心地の良い場所である。
住民たちも、真田家の人々を好ましく思っているようだ。

**信貴山
河内(現在の大阪府)と大和(現在の奈良県)の国境にある
生駒山系の山。

松永久秀が居城とした信貴山城や、
「信貴山縁起絵巻」で知られる朝護孫子寺がある。

**信濃
現在の長野県。

隣国・甲斐(現在の山梨県)の大名である武田信玄は
信濃侵攻を行い、国衆たちを次々と武田家に従わせた。
こうして信濃の領国化に成功した信玄だったが、
追い出された村上義清らが上杉謙信を頼り、
謙信がそれに応えたことにより、川中島の戦いへと発展した。

**新府
山梨県韮崎市。新府城があったことで有名。

新府城は長篠の戦いののち、穴山信君の献策を受けた
武田勝頼によって築かれた。
真田昌幸が普請奉行だったという説もある。
織田軍の攻勢を防ぐための本拠であったが、
完成から二ヵ月後、武田勝頼は自刃してしまう。

勝頼は新府城を築いた際、躑躅ヶ崎館を破壊。
以降、韮崎を新府、躑躅ヶ崎を古府と言うようになったという。

**駿河
現在の静岡県の一部。

鎌倉幕府が開かれると、
朝廷と幕府を結ぶ東海道の要衝とされ、栄えた。
今川家が台頭し治めるようになったが、
桶狭間での義元の死により、
徳川や武田の侵攻を受けることとなる。

緑茶の名産地。

**諏訪湖畔
長野県諏訪市にある湖畔。
武田信玄が埋葬されたという伝説がある。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄が臨終の際に
「自分の遺体を諏訪湖に沈めよ」と遺言したとあるが、
実行されなかったという。
ちなみに信玄の菩提寺は山梨県の恵林寺。

**高天神城
遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)の城。
今川家滅亡後、徳川家の家臣となった小笠原氏が城代。

堅固な山城で、武田信玄の猛攻も防いだ。
のちに武田勝頼が内通策などを駆使して城を奪取。
信玄が落とせなかった城を落としたことで、
勝頼の武名は天下にとどろいたという。

**中国
本州の西部地域。
備中・備後・安芸・周防・長門・出雲・伯耆・因幡の八カ国。
日本海側を山陰、瀬戸内海側を山陽という。

大内家と尼子家が大きな勢力を誇っていたが、
毛利元就の謀略の前に滅び去り、
中国は毛利の席巻するところとなる。

**躑躅ヶ崎館
甲斐国山梨郡古府中(現在の山梨県甲府市古府中)に
あった武田の居館。

信玄の父・武田信虎が築き、信虎、信玄、勝頼三代の本拠となる。
三重構造の堀や馬出しなど防御機能はあったが、
あくまでも政治的拠点であり、
有事の際にはこの館を出て
詰城である要害山城に籠もる手はずになっていた。

現在、跡地には武田信玄を祭神とする武田神社が建てられている。

**敦賀
越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)。

畿内と北陸道を結ぶ交通の要衝。大陸への玄関口でもある。
さらには、越前一宮である氣比神宮があることから、
門前町としても栄えた。

天正十七年(1589)に大谷吉継に与えられた。
これは日本海交易の要である敦賀港を秀吉直臣の手に
押さえさせる狙いがあったとされる。

**手取川
加賀国(現在の石川県)に流れる川。
上杉軍と織田軍が戦った手取川の戦いが有名。
天正五年(1577)、能登畠山家の長続連は、
七尾城に攻め寄せた上杉謙信に対抗すべく織田信長に救援を要請。
だが、織田軍が手取川を渡河した時には七尾城はすでに陥落。
危機を悟った勝家は撤退するが、謙信の猛追撃を受け敗れた。
多くの織田の将兵が手取川で溺死し、「上杉に逢うては織田も
手取川、はねる謙信逃げる信長」という落首が残された。

**天目山
甲斐国(現在の山梨県甲州市)の峠。

織田信長の甲州征伐を受け、新府城より落ち延びた武田勝頼が
小山田信茂に裏切られ、最期にたどり着いた地。
この地で勝頼は妻子と共に自害。武田家終焉の地となった。

**戸石城
信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)の城。砥石城とも。

元は真田家の城であったらしいが、一時村上義清に奪われており、
義清はここを拠点に武田信玄をさんざん苦しめた。
のちに真田昌幸の父・幸隆が調略により奪還。
この功により、戸石城を含む真田郷が真田家の手に戻された。

第二次上田合戦では東軍に属した昌幸の子・信之が占拠している。

**東海道
五畿七道(古代日本律令制における行政区画)の一つ。

常陸国(現在の茨城県)から伊賀国(現在の三重県西部)を結ぶ、
本州太平洋側中部の行政区分およびその地域を通る幹線を指す。
現在は後者の意味合いが強い。

北条征伐時の豊臣軍本隊や、
関ヶ原の戦い時の徳川軍本隊は東海道を進んだ。

**東国
あづまのくに。

現在の関東・東海・甲信地方一帯を指す。
特に関東とほぼ同義であるが、
時代によって、該当する範囲の解釈は異なる。

**土佐
現在の高知県。

戦国時代には土佐七雄と呼ばれる国衆が割拠したが、
やがて長宗我部元親が頭角を現し、土佐を統一した。
元親は続いて四国統一を目指したものの、
達成を目前としたところで羽柴秀吉の四国征伐を受け、降伏する。

その後、元親の子・盛親は関ヶ原の戦いで西軍に与して改易。
土佐は山内家の支配するところとなった。

**長篠城
三河国設楽郡(現在の愛知県新城市)長篠の城。
奥平信昌が守るこの城を武田勝頼が攻めたことが、
長篠の戦いの発端となった。

戦後、城は大きく損壊していたため、廃城となっている。

**中山道
東海道とは異なり、内陸経由で江戸と京を結ぶ街道。
武蔵から上野・信濃・美濃・近江・山城と結ぶ。

関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠率いる別働隊は中山道を進み、
途上にある上田城の真田昌幸・幸村を攻撃した。

元々は東山道の一部で、
中山道として整備されたのは江戸時代である。

**名胡桃城
上野(現在の群馬県)の沼田城の支城として作られた城。

豊臣秀吉の裁定で沼田の支配権が北条に定まったとき、
「真田発祥の地である」という真田昌幸の申し分が認められて、
名胡桃は真田領に残された。
これを不服とした北条方の猪俣邦憲は間もなく名胡桃城を奪取。
この行いが秀吉の命に背くものとして、北条征伐の口実となった。

ちなみに名胡桃が真田発祥の地というのは真っ赤な嘘である。

**沼田城
上野国利根郡(現在の群馬県沼田市)沼田の城。
沼田後は河岸段丘で知られる。

北関東の要衝であり、
この地を巡って武田・上杉・北条が激しく争った。
武田滅亡後は真田の重要な拠点となり、
北条と幾度も戦火を交えることとなる。

**肥後
現在の熊本県。

名前の由来は肥前(現在の大分県)と合わせて「火(肥)の国」
から。阿蘇山の活動が古代から活発であったことがうかがわれる。

戦国時代には阿蘇家、相良家が活躍するが、
いずれも島津家の侵攻に屈服した。
豊臣による九州征伐後は佐々成政に与えられたが、
不始末があり間もなく改易。
その後は北半国は加藤清正、南半国は小西行長に与えられた。

**耳川
宮崎県日向市を流れ、日向灘に注ぐ川。

大友家と島津家が激突した「耳川の戦い」が有名。
天正六年(1578)、大友軍は日向を攻め取るべく、
大軍をもって南下。
島津軍は耳川で迎撃するが敗北し、大将の家久は逃走した。

勢いに乗った大友軍は、島津の高城を包囲。
だが、戦前から大友軍は内部分裂を起こしていて、
高城の攻め方を巡って大将同士がもめる始末だった。
島津軍はその隙を突き反撃、大友軍は大敗して敗走する。
その際、雨で増水した耳川に多数の兵が呑み込まれたという。

この戦いで多くの将兵を失った大友家は衰退。
逆に島津家は勢いに乗り、九州の覇者へと躍り出る。

**山崎
摂津国と山城国の国境。
現在の大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町。
明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いが有名。
本能寺で織田信長を討った明智光秀は畿内の地盤固めをしていた。
だが、毛利を攻めていた羽柴秀吉が「中国大返し」を敢行、
ものすごい早さで畿内に戻ってくる。
光秀はやむなく準備も整わぬまま秀吉と激突。
両軍は天王山の山すそなどで一進一退の攻防を繰り広げるが、
羽柴軍の奇襲をきっかけに明智軍は押されはじめ、
本陣の側面を突かれて総崩れとなった。