本願寺関連
■本願寺一門・有力者
本願寺第10世。
蓮如の六男。署名は顕証寺蓮淳。証如後見人。実質的本願寺のトップ
顕証寺は摂津八尾、願証寺は伊勢長島の寺院。利益のためなら一門も弟も殺す自分本位な人。奥さん多数
山科本願寺が焼き討ちにあった時、主である証如を置いて逃げる。1531年の大小一揆の原因を作る。
(あれ?できる夫とすごく似てない?)
一門の重鎮。大和国願行寺を開く。大和の門徒を掌握。
蓮淳の孫。願証寺3世。伊勢・尾張・美濃の3国の寺院・門徒支配の権限をもつ。
証恵の子。願証寺4世。1566年願証寺の院家相続を認められる。1570年からの長島一向一揆の指導者。
織田信長の弟信興を自害に追い込み、氏家卜全を討ち取り柴田勝家を負傷させたが、1571年に急逝。
蓮淳の四女で本願寺証如の母。1557年の正親町親王践祚の際、資金の献上を決定させるなど、女性ながらに強大な権限を保有した。
蓮如の孫。蓮誓次男。加賀勝興寺初代。1531年の大小一揆で弟顕誓に勝利し、勝興寺を加賀の二大勢力に育てる。
実照実玄子。勝興寺2代。
蓮如の孫。蓮誓三男。加賀光教寺3世。1531年の大小一揆で蓮淳らに敗れ破門される。1543年に復帰し石山本願寺に入る。
加賀超勝寺第5代。妻に蓮淳の娘。1531年大小一揆で蓮淳派に属し越前一向一揆の指導者に上り詰める。
(越前の超勝寺は朝倉宗滴に焼かれたので加賀から越前へ活動)
加賀超勝寺第6代。実顕の長男。1550年頃には顕祐が継いでいるのでその頃には死んでいる模様
加賀超勝寺第7代。実顕の次男。主戦派として朝倉との講和に抵抗した。
近江堅田の本福寺第5世。長年にわたって本願寺を支えたが、蓮淳が台頭すると蓮淳の権力欲によって
3度破門され、財産と門徒をことごとく失った上残った門徒と共に餓死した。子孫に「本願寺一門を信じるな」と遺している。
近江堅田本福寺第6世。本福寺を称徳寺(蓮淳の勢力下の寺)の末寺にすることで破門を許される。
『本福寺由来記』『本福寺門徒記』を遺す。ここでも本願寺一門への恨み節は健在。
近江堅田の本福寺第7世。石山合戦に参加。
越中南砺の瑞泉寺4世。越中一向一揆のまとめ役。瑞泉寺城(井波城)主。1550~60年代に上杉謙信と激戦を繰り広げ
その勢力圏を維持した。1575年に上杉謙信と和睦
※まだ生まれてない
第11世。証如の長男(?)。
■坊官など
顕如の軍政両面における要。下間家の中では傍流だったが、顕如に見出され坊官でも最高格の権勢を得る。
越前一向一揆総大将。顕如に見出される1573年以前の行跡は不明。
証如の代の上座(坊官の最高位)。1549年急死。
証如の代に奏者となり、1549年、兄の死後上座に就く。
本願寺の青侍(下級武士)出身だが、顕如の代になって坊官となり、加賀一向一揆の指導者となる。
加州大将と呼ばれ織田軍と戦ったが、次第に権勢を振るうようになり弾劾を受け、織田軍に大敗した後死去。
本願寺の外交官。1556年に足利義輝仲介での朝倉との和睦成立に動いたが毒殺される。
石山から願証寺に派遣され織田信長の弟信興を自害に追い込み、氏家卜全を討ち取り柴田勝家を負傷させた。
1574年に織田の兵糧攻めにより降伏、開城したところを織田軍によって皆殺しにされる。
- 杉浦玄任(?~1575)※子供や父親の年齢から1530~40年の生まれと推定される
本願寺坊官。1567年の加賀一向一揆で朝倉義景と戦い、戦後の和睦では朝倉義景に嫡子又五郎を出している。
信長に対し徹底抗戦を訴えた主戦派。1572年上杉軍に尻垂坂の戦いで大敗。1573年朝日山城攻防で上杉軍に勝利。
1574年4月に朝倉景鏡を滅ぼすも、鉢伏山城の攻防で織田軍の大軍に破れ死亡。
■本願寺関連年表
1540年7月 本福寺明宗、蓮淳による弾圧・破門により72歳で餓死する。本福寺は衰退。
蓮淳の権勢が絶頂期に。
1541年 朝倉との間で和談。
1546年 金沢御坊(尾山御坊)が完成。
最終更新:2015年04月06日 22:01