石田梅巌


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石田梅巌先生物語

背景

石田梅巌は、1685年から1744年迄を生きた。
それは徳川時代の豪華な文化を築いた綱吉、吉宗の時代。武力による徳川封権社会の基礎がかたまって、
平和になると武士も無用な存在となった。いままで押さえつけられた欲望を解放した町人達は自らあたしい社会と文化をつくりはじめた。
いわゆる武から、文へ変わる変革期で、絵画、浮世絵、文学等が多いに開花した文化大革命。
町人たちは欲望を満たそうと贅沢をしていき、止まるところを知らなかった。
梅巌はそんな時代に生き、そんな町人たちを見て黙っていられなかった。


生い立ち
丹波(京都府)で百姓の次男坊として生まれる。

  • 幼いころより厳しく育てられた。
ある日、父親に道で拾った栗を「元にもどしてきなさい」と厳しくしかられた。
当時、梅巌はくやしくて泣いたが、自分のものと他人のものをはっきりさせるために厳しくされた父の慈愛を思い、
親と子の道について正しいことを教えることこそ真実の愛だと考えた。

  • 11才 丁稚奉公
農村の習慣で、年頃になると奉公にだされた。
奉公先では両親の教えをまもり、奉公先の主人を親と思い、忠実に働いた。

  • 自己反省、自己改造
奉公先でうまくいかず、故郷に帰ってきた15才の事、自らの理屈っぽい性格にきがつき、60才の時にようやく直した。
人格上の病気とはいえ、自己の悪癖改善の努力は非常に困難だが、梅巌は一生をかけてこれを克服した。

  • 一日2食の青年時代
「一日3食は無駄が多い。2食にして、残る1食はどこかで役に立てる」と、一食分を乞食にあたえた。
45才に忠告されるまでは2食を貫いた。

  • 二回目の奉公で心学の基礎作り
23才、呉服屋へ奉公に。
少しの暇も逃さず本を読んだ。目的は「古の聖賢人の行いを学んで、自分もそうゆう人の真似をしたい」から。
神道や儒教に関心を持った。
質素倹約を守り、よく主人につかえた老女の影響か、質素倹約、人を心配させない気遣いを後に実践している。
後輩達には、寒いときは温かいところを他にゆずり、自分は端に寝、夏は涼しいところを譲った。

40才、小栗了雲に師事。
「自性見識の見を捨てなさい」といわれ、しばらく寝食をわすれ努力し、
ついに我執(己のエゴ)を捨て去ることに成功した。

京都にて開講
モラルの道を説きたい思いから、京都で無料講座を開講した。
男女区別なく、誰でもウェルカムだった。
はじめは、怪しげな目でみられ、時には反発もあったが、聴講者は増えていった。
途中からは、生活問題のコンサルタントも行っていた。
日常生活の中に出てくる疑問や悩みごとを聞き出して指導していた。

商人は悪?
  • 商人の利は欲心があるといっては、商人は滅びる。
  • 商人には商人の道がある。
  • 「商人の利とは、武士の俸禄(ほうろく)、農民の耕作料と同じ。ただし、不義の利益は道に反する」
商人には商品の流通を促し、「天下の人々の心を安んずる」ことが重大な使命があるだと説いた。

倹約
「私利私欲ほど、世の中を害するものはない」と説いて、倹約を実践した。
  • 心の倹約・・・自分の癖を直して、他人に迷惑をかけない。
  • 物の倹約・・・物や時間を大切にする。
倹約をすることが、私利私欲から離れることにつながる。

仁の実践
仁を説かれ、自ら実践した。
  • 少しでもよいところを人に譲って喜んでもらいたい。
  • 外出するときその行き先や、往来する道筋を家内の者に言っておくと家の人を安心させる。これも仁だ。
日常生活の笹井な事の中にこそ、仁、すなわち思いやりがあることを身をもって示した。
仁の根本は無欲になること。しかし、これが難しかったと言っている。
自信が、生涯独身で自炊だったのもその手段だった。

忙しい生活の中で
講釈、生活問題のコンサルタントをやりながら、その準備、来客の相手をこなし、
尚かつ自らの身の回りの一切を行っていた。しかし、生活が乱れることはなかった。
超人的な生活態度であった。

そこまで・・勧善懲悪
  • 湯を汚さないように、入る前に身体を洗う
  • 足に手がふれると、必ず手を洗った。
清濁を区別して、心を清く保とうとした。
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