上杉鷹山


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「上杉鷹山が実践した藩政改革」
〜ジョン・F・ケネディが尊敬した日本人〜
作成:坂本健介

上杉鷹山は、上杉謙信が先祖の上杉家の養子。
1767年から、17歳の上杉鷹山が改革したのは、当時日本でも最悪な状況にある東北の一国、
米沢藩だった。(現在の山形県南部)米沢藩の再興の為に生涯をささげた。

上杉家は、上杉景勝の時、120万石あった石高を、家康に30万石に移封(いほう)され、さらに4代藩主急死の際、無嗣(むし)の危機で15万石になった。上杉景勝の命により、藩士の人員整理をしなかったため収入の約9割が家臣の給与となり、年月がたつにつれ膨大な借金をかかえるようになった。鷹山のとき藩を返上する瀬戸際だった。しかし返上せず、藩政改革に乗り出した。

改革の考え方とやり方「転源自在」「愛と信頼の政治」
改革の前に立ちはだかる三つの壁。制度の壁、物理的な壁、意識(心)の壁のうち、心の壁が一番こわさなければならないと考えた。悪いのは本国の人間(重役)だと決めつけず、まず気づいた方から、自分を改める以外に方法はないと説いた。(転源自在)

1、情報はすべて共有する。
全ての藩士を集めて、藩の実態を包み隠さず共有し、目標を示すとともに、当時の鷹山自身の未熟さをも示し、目標を達成するために、指示、命令ではなく協力を要請した。
2、討論を活発にする。
藩政改革の為の協力者として、形式にこだわって村八分を恐れ何もできない重役より、学問、民政、農政の知識技術には長けているが、社会悪に怒りを持ち、相手かまわず物言い、重役に嫌われている冷メシ派を登用した。鷹山の側近には、佐藤文四郎をはじめ率直に自分に意見を言うものをおいた。
3、討論の末の合意を大切にする
改革案を冷メシメンバーに考えさせ、それを公言し実行させた。
4、現場を重視する。
改革が始まってからも、自らの足で藩中を走り回って取材を行った。
他人に何か頼むためには、まず、頼む人間が自分でやってみせなければダメだ。してみせて、いってきかせて、させてみる。事が重要だと問いた。 藩士に農業をさせるときに、上杉鷹山自身の敷地に農地を作った。虚礼を廃止し、倹約を奨励し、鷹山自身も生活費を8分の1に切り詰め、まず自らが倹約の模範となった。
5、城中に慈愛と信頼の念を回復する
藩政改革は藩民の為に行うものだと、「民を富ませること」を掲げ、藩内の身体障害者、病人、老人、妊婦、子供など弱い立場たちを労わる政治を目指した。徳を政治の基本におき、藩民に対しての愛と信頼で行おうとした。現代の民主主義の考え方で行われた。
6、地場の特性を活かした産業を起こした
藩士を労働力にした。藩士は、年貢で養われている、徒食は許さぬといって、武士やその家族を積極的に開墾地や生産地ではたらかせた。

他所の例を参考にし、成功と失敗の理由を分析した。

改革の目的がよくわからないこと
しかもその推進者が一部の人間に限られていた事
改革を行う政庁員全員にも改革の趣旨が徹底していなかったこと
当然、改革の目的や方法が親切に領民に知らされずに一方的に押し付けられたこと。
改革が進んで、幕府や藩が身軽になれば当然領民の負担を軽くしなければならないのに、増税したこと。
改革される側の痛みに深い理解と同情を示さなかったこと。改革を進める官僚は、すべて名門出身の上位者であり、部下に対して、指示・命令としてのみ方法を押し付けた。

人材登用に関しては、上層部は耳の痛い事を言う直言者を嫌がり、口がうまい者を登用する。これが、改革目的が正しい場合でも、土民の誤解と非協力を誘発する最大の原因。故に改革者が改革される側の痛みに深い理解と同情を示さなかった。

改革の結果と、上杉鷹山のやり方のポイント

重役たちの反乱を逆手にとって、上杉鷹山の考え方を全藩士に伝達した。

須田、芋川をはじめとする重役7人が鷹山に対して、建言書を提示し、建言書どおりにしないのなら幕府に訴えて上杉鷹山を藩主の座から追うと脅迫した。(クーデターは失敗した。)

側近たちが処分を促すなか、上杉鷹山は、「感情で人を裁いてはならぬ」と冷静に考えた。反乱という事実を全藩士に上杉鷹山の考え方を伝達する手段にしようと考えた。
全藩士をあつめて、建言書を読み上げ、藩士の大半が同意ならば藩主の座を退くと言った。しかし、身分の低い層から、改革賛成の声があがった。現場の声が、上役藩士をうごかした。反乱を起こした7人の重役に厳刑をおこなった。須田、芋川には切腹を命じた。上杉鷹山は単なる優しい人ではなく、一旦筋を通すとなると容赦のない一面があった。切腹させた須田、芋川の実子たちを要職にくわえ、側近たちの意見が馴れ合いに毒される事を懸念した。

藩士だけでなく、百姓、町人の子も含めて教育をうけられる学校「興譲館」を建設した。
米沢藩の未来を担う若い人、藩士以外にも、百姓、町人の子も含めて教育をさせる為に学校をつくった。学校建設の資金は、百姓、町人からの出資でまかなった。藩士は、自らの鎧を質にいれ出資した。

上杉鷹山の徳は偽物ではなく、本物の誠実な人間だった。
改革に協力する事で自らも富む故に、上杉鷹山の改革案には、藩士、町民、農民が協力にいそしんだ。結果的に、米沢藩の農工商を活性化させただけでなく、人間の心に愛と信頼の心をよみがえらせた。
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