武士道とは何か

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*デザインと武士道 **概要 ---- **武士道とはなにか ---- +武士道とは、武士の道徳原理。著名な武士や学者の筆から生みだされたものが多いが、それだけに武士道は、「侍」の強力な行動規範として拘束力をもった。 +侍にとって、勇猛果敢なフェアプレーの精神こそがあらゆる文武の徳の根本とされた。 +武士道におけるあらゆる知識は、日々の行動と合致しなければならかった。(知行合一) +孔子と孟子の古典を知るだけでは高い尊敬を受ける事はできなかった。「論語読みの論語知らず」とされ、知性とは行動として現れる道徳的行為だと考えられた。 ***義とは? +「義」は、もっとも厳格な徳目で、卑劣な行動や、不正なふるまいは忌まわしいとされた。「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の欲望を制御しなければなし得ないものだった。 +「義理」とは「正義の道理」を意味するが、現代では、義理という言葉は驚くべき言葉の誤用を生んでいる。 世論が定めた果たすべき義務と、世論が期待する個人的義務感を意味するようになり、しばしば詭弁の為に用いられ堕落してしまった。 +武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神。フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。 +当時、軍事的な戦略として狡猾な策略がまかり通っていた時代に、率直で正直で男らしい徳として、忠臣蔵の武士たちは、「四十七人の義士」とよばれた。 +武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とする精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。 ***勇とは? +孔子は「義を見てせざるは、勇なきなり」と説いた。「勇」とは正しいことを敢然と実行することであり、「勇」は「義」によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値がないとされた。 +武士道の中では、真の勇気、大事に当たって奮い起こす勇気である「大勇」と、思慮分別なくただ血気にはやる勇気である「匹夫の勇(ひっぷのゆう)」は明確に区別され、人が恐れるべきことと恐れるべきでないことの区別こそが「勇」とされた。 侍にとって、命を投げ出す猪突猛進の行為は賞賛されず、死に値しないもののために死ぬことは犬死とされた。 +侍の子は、死の危険や恐怖を前に動じない精神を養おうと、あえて過酷とも言える試練を与えられ、忍耐と勇気を鍛えさせられた。 +迫り来る危機を前にして詩歌をつくり、歌を口ずさむ。そういう人こそ偉大なる人と賞賛された。 +江戸城の築城者である太田道灌(おおたどうがん)は、槍で刺された時、道灌が歌の達人と知っていた刺客は「かかる時さこそ生命の惜しからめ」という句を詠んだ。道灌は致命傷にも関わらず「兼ねて亡き身と思ひしらずば」と下の句を続けた。侍にとって合戦は野蛮な殺し合いではなく、知的な勝負だった。 &italic(){「かかる時さこそ命の惜しからめ かねて亡き身と思い知らずば」・・・「前々から死んだ身と思い知っていなかったら、こんな時はさぞ命が惜しいことだろう。自分は思い知っているから(戦に明け暮れているのだから、生きてはいるがもう死んだと同じだと思い、いつも死ぬ覚悟を決めているから)、こんなときでも命は惜しくないのだ。」 } +上杉謙信は武田信玄を「敵の中のもっとも優れた人物」として尊敬の念を抱いていた。北条氏に塩の供給を断ち切られた信玄に、謙信は「我、公と争う所は弓矢にて米塩にあらず。」と塩を送った。 +勇気と名誉は、ともに価値ある人物のみを平時の友とし、戦場の敵とすべきことを求めている。 ***仁とは? +「仁」とは、愛、寛容、他者への情愛、哀れみの心であり、人間の行うべき最高の徳とされた。 +伊達政宗は「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」と言った。「義をみてせざるは勇なきなり」で、何が「義」であるのかを決めるのは、人間としての思いやり、つまりは+「仁」である。武士道では、「智」によって「仁」と「義」のバランスをとり、どちらに偏りすぎてもよくないと教えている。 +武士の「愛」は盲目的な衝動ではなく正義に対して適当なる顧慮を払える愛であり、また単にある心の状態としてのみではなく、生殺与奪の権力を背後に有する愛だからこそである。特に、弱者や虐げられた者、敗れた者への「仁」は、武士に相応しいものとして賞賛された。 ***礼とは? +単純な茶の湯の世界ですら芸術の域まで高めた。これが礼の力である。 +「礼」の根本は「仁」と「義」という人が人として行うべき道徳を単に内面の精神を、行動の美学、型として表現したものが「礼」である。「礼」の典型は切腹という儀式であり、それらの型は言葉使いから立ち振る舞いまで厳格に守られた。 +品性の良さを損なわぬために「礼」が実践されるのであれば、日常の挨拶ですら相手を思いやる心がなければそれは単なる所作であり、「礼」とは言えずかえって「失礼」となる。 +「礼」は物事の道理に正当な敬意を払うことでもあり、従って社会的な地位にも正当な敬意を払うことを意味する。 ***誠とは? +「誠」は、字の通り「言ったことを成す」という意味で、行動規範そのものを表す言葉であり、それゆえに武士は一度「イエス」と承諾したことを命に代えて実行した。ここから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。 +侍は、嘘つきや不誠実な者を人間として最も卑しき者とし、厳しく嫌った。武士の一言は真実を保証するものであり、古来日本には契約といった概念はなく「口約束」だけで十分事は足りたとされた。 +武士のする約束は証文なしで行われ、かつ守られた。証文を書くことは面目を損なうことだと考えられたのである。偽りの言に対する何らかの積極的な戒めがない中、嘘をつくことが罪悪として咎められたのではなく、むしろ弱さとして批判され、それが武士にとっては大いに不名誉なことだったのである。「誠」と「名誉」は不可分であり、一体のものである。 +また、武士道では慇懃無礼との言葉もあるように、そこに心がなければいかに形があったとしても「礼」とは認めなかった。 ***名誉とは? +名誉という感覚には、人格の尊厳と価値の自覚が含まれる。侍の特質をなす一つとされ、幼い頃から教え込まれた。 +武士道における「名誉」とは、名を尊び自分に恥じない高潔な生き方を守ること。武士道の「死」とは「生」を高めるための「死生観」であり、それは「どう生きながらえるか」ではなく、むしろ「どう美しく死ぬか」、同時に「何のために生きるか」という根元的な哲学の上に位置するものである。そこから転じて、武士道は死を超えても守らなければならない「義」のために、死をも美学として昇華させたのである。 +若者達が追い求める目標は、富でも知識でもなく「名誉」であった。徳川家康の十男、頼宣(よりのぶ)は、大阪冬の陣に際して先鋒軍に加えて欲しいと熱心に懇願するも後陣に配置された。その後、大阪城が落城した際、頼宣は激しく悔し涙を流した。それを慰めた老臣、松平正綱に対して「なんと愚かなことを。我が十三の歳が再び来ると言うのか」と言った。 +名誉と名声が得られるのであれば生命は軽いものと考えられていた。それゆえ、生命よりも重い大義が生ずればいつでも、極めて冷静かつ迅速に生命を棄てることができた。 ***忠義とは なんのために武士は生きるのか? +武士道の道徳律として義、勇、仁、礼、誠、名誉があるが、これらは儒教思想に基づくものであり、武士階級だけでなく他の階級の人々と共通すべき倫理である。 +「忠義」武士道の目的となった徳目で、封建社会を特徴づけるものである。武士道の「忠義」は主君に真心から仕えるとの意味であり、忠義心がもっとも重みを帯びるのは、武士道の+「名誉」の規範においてのみである。 +武士道において「忠義」の実践に躊躇はなかった。家族、そして広くは組織とその構成員の利害は一体不可分だった。 +主君・上位者の命令や彼らへの忠義は絶対的であるが、主君の気まぐれな意志、もしくは妄念邪想のために自己の良心を犠牲にする者に対しては、武士道は低い評価を与えた。 +侍が、主君と意見が分かれるとき、家臣のとるべき忠節の道はあくまで主君のいうところが非であることを説くことであった。もしそのことが容れられないとき、武士は自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをした。 +武士道は、私たちの良心が主君の奴隷になることは要求しなかった。
*武士道とはなにか ---- +武士道とは、武士の道徳原理。著名な武士や学者の筆から生みだされたものが多いが、それだけに武士道は、「侍」の強力な行動規範として拘束力をもった。 +侍にとって、勇猛果敢なフェアプレーの精神こそがあらゆる文武の徳の根本とされた。 +武士道におけるあらゆる知識は、日々の行動と合致しなければならかった。(知行合一) +孔子と孟子の古典を知るだけでは高い尊敬を受ける事はできなかった。「論語読みの論語知らず」とされ、知性とは行動として現れる道徳的行為だと考えられた。 ***義とは? +「義」は、もっとも厳格な徳目で、卑劣な行動や、不正なふるまいは忌まわしいとされた。「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の欲望を制御しなければなし得ないものだった。 +「義理」とは「正義の道理」を意味するが、現代では、義理という言葉は驚くべき言葉の誤用を生んでいる。 世論が定めた果たすべき義務と、世論が期待する個人的義務感を意味するようになり、しばしば詭弁の為に用いられ堕落してしまった。 +武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神。フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。 +当時、軍事的な戦略として狡猾な策略がまかり通っていた時代に、率直で正直で男らしい徳として、忠臣蔵の武士たちは、「四十七人の義士」とよばれた。 +武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とする精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。 ***勇とは? +孔子は「義を見てせざるは、勇なきなり」と説いた。「勇」とは正しいことを敢然と実行することであり、「勇」は「義」によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値がないとされた。 +武士道の中では、真の勇気、大事に当たって奮い起こす勇気である「大勇」と、思慮分別なくただ血気にはやる勇気である「匹夫の勇(ひっぷのゆう)」は明確に区別され、人が恐れるべきことと恐れるべきでないことの区別こそが「勇」とされた。 侍にとって、命を投げ出す猪突猛進の行為は賞賛されず、死に値しないもののために死ぬことは犬死とされた。 +侍の子は、死の危険や恐怖を前に動じない精神を養おうと、あえて過酷とも言える試練を与えられ、忍耐と勇気を鍛えさせられた。 +迫り来る危機を前にして詩歌をつくり、歌を口ずさむ。そういう人こそ偉大なる人と賞賛された。 +江戸城の築城者である太田道灌(おおたどうがん)は、槍で刺された時、道灌が歌の達人と知っていた刺客は「かかる時さこそ生命の惜しからめ」という句を詠んだ。道灌は致命傷にも関わらず「兼ねて亡き身と思ひしらずば」と下の句を続けた。侍にとって合戦は野蛮な殺し合いではなく、知的な勝負だった。 &italic(){「かかる時さこそ命の惜しからめ かねて亡き身と思い知らずば」・・・「前々から死んだ身と思い知っていなかったら、こんな時はさぞ命が惜しいことだろう。自分は思い知っているから(戦に明け暮れているのだから、生きてはいるがもう死んだと同じだと思い、いつも死ぬ覚悟を決めているから)、こんなときでも命は惜しくないのだ。」 } +上杉謙信は武田信玄を「敵の中のもっとも優れた人物」として尊敬の念を抱いていた。北条氏に塩の供給を断ち切られた信玄に、謙信は「我、公と争う所は弓矢にて米塩にあらず。」と塩を送った。 +勇気と名誉は、ともに価値ある人物のみを平時の友とし、戦場の敵とすべきことを求めている。 ***仁とは? +「仁」とは、愛、寛容、他者への情愛、哀れみの心であり、人間の行うべき最高の徳とされた。 +伊達政宗は「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」と言った。「義をみてせざるは勇なきなり」で、何が「義」であるのかを決めるのは、人間としての思いやり、つまりは+「仁」である。武士道では、「智」によって「仁」と「義」のバランスをとり、どちらに偏りすぎてもよくないと教えている。 +武士の「愛」は盲目的な衝動ではなく正義に対して適当なる顧慮を払える愛であり、また単にある心の状態としてのみではなく、生殺与奪の権力を背後に有する愛だからこそである。特に、弱者や虐げられた者、敗れた者への「仁」は、武士に相応しいものとして賞賛された。 ***礼とは? +単純な茶の湯の世界ですら芸術の域まで高めた。これが礼の力である。 +「礼」の根本は「仁」と「義」という人が人として行うべき道徳を単に内面の精神を、行動の美学、型として表現したものが「礼」である。「礼」の典型は切腹という儀式であり、それらの型は言葉使いから立ち振る舞いまで厳格に守られた。 +品性の良さを損なわぬために「礼」が実践されるのであれば、日常の挨拶ですら相手を思いやる心がなければそれは単なる所作であり、「礼」とは言えずかえって「失礼」となる。 +「礼」は物事の道理に正当な敬意を払うことでもあり、従って社会的な地位にも正当な敬意を払うことを意味する。 ***誠とは? +「誠」は、字の通り「言ったことを成す」という意味で、行動規範そのものを表す言葉であり、それゆえに武士は一度「イエス」と承諾したことを命に代えて実行した。ここから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。 +侍は、嘘つきや不誠実な者を人間として最も卑しき者とし、厳しく嫌った。武士の一言は真実を保証するものであり、古来日本には契約といった概念はなく「口約束」だけで十分事は足りたとされた。 +武士のする約束は証文なしで行われ、かつ守られた。証文を書くことは面目を損なうことだと考えられたのである。偽りの言に対する何らかの積極的な戒めがない中、嘘をつくことが罪悪として咎められたのではなく、むしろ弱さとして批判され、それが武士にとっては大いに不名誉なことだったのである。「誠」と「名誉」は不可分であり、一体のものである。 +また、武士道では慇懃無礼との言葉もあるように、そこに心がなければいかに形があったとしても「礼」とは認めなかった。 ***名誉とは? +名誉という感覚には、人格の尊厳と価値の自覚が含まれる。侍の特質をなす一つとされ、幼い頃から教え込まれた。 +武士道における「名誉」とは、名を尊び自分に恥じない高潔な生き方を守ること。武士道の「死」とは「生」を高めるための「死生観」であり、それは「どう生きながらえるか」ではなく、むしろ「どう美しく死ぬか」、同時に「何のために生きるか」という根元的な哲学の上に位置するものである。そこから転じて、武士道は死を超えても守らなければならない「義」のために、死をも美学として昇華させたのである。 +若者達が追い求める目標は、富でも知識でもなく「名誉」であった。徳川家康の十男、頼宣(よりのぶ)は、大阪冬の陣に際して先鋒軍に加えて欲しいと熱心に懇願するも後陣に配置された。その後、大阪城が落城した際、頼宣は激しく悔し涙を流した。それを慰めた老臣、松平正綱に対して「なんと愚かなことを。我が十三の歳が再び来ると言うのか」と言った。 +名誉と名声が得られるのであれば生命は軽いものと考えられていた。それゆえ、生命よりも重い大義が生ずればいつでも、極めて冷静かつ迅速に生命を棄てることができた。 ***忠義とは なんのために武士は生きるのか? +武士道の道徳律として義、勇、仁、礼、誠、名誉があるが、これらは儒教思想に基づくものであり、武士階級だけでなく他の階級の人々と共通すべき倫理である。 +「忠義」武士道の目的となった徳目で、封建社会を特徴づけるものである。武士道の「忠義」は主君に真心から仕えるとの意味であり、忠義心がもっとも重みを帯びるのは、武士道の+「名誉」の規範においてのみである。 +武士道において「忠義」の実践に躊躇はなかった。家族、そして広くは組織とその構成員の利害は一体不可分だった。 +主君・上位者の命令や彼らへの忠義は絶対的であるが、主君の気まぐれな意志、もしくは妄念邪想のために自己の良心を犠牲にする者に対しては、武士道は低い評価を与えた。 +侍が、主君と意見が分かれるとき、家臣のとるべき忠節の道はあくまで主君のいうところが非であることを説くことであった。もしそのことが容れられないとき、武士は自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをした。 +武士道は、私たちの良心が主君の奴隷になることは要求しなかった。

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