「・・・あっ」朝の通学路。佐々木千枝は、信号待ちをしているその人物の姿を認めると、少し駆け足になって声をかける。「お、おはようございます、おにいさんっ」「ん?あぁ千枝ちゃん、おはよう。今日はちょっと早いんだね」「はい、千枝、今日の日直なんです。おにいさんも、いつもより早いんですね」「うん、最近人が増えたもんだから、色々忙しくってさ」千枝と彼の関係は、家が近所であるという、ただそれだけだ。だが時折、青年が佐々木家の夕食に招かれることがあるなど、付き合い自体は深いものである。(・・・今朝は会えないかも、って思ってたのに。えへへ、ちょっとうれしいな・・・♪)小さな頃からよく遊び相手になってくれていた青年に、千枝は好意的な感情を抱いていた。幼いゆえに『大人への憧れ』と『異性への恋慕』がないまぜになったその感情を、しかし千枝は彼に見せることは極力避けていた。感情の整理はつかないまでも、千枝は年の割に聡い子だった。自分のこの感情を吐露されたところで、青年は困惑するだけだろう、と解っていたのだ。自分に懐いてくれている、妹のような存在。そう思われているだけでも良い、と、おおよそ小学生とは思えない、諦めにも似た考え。「・・・ふぅん?『イイモノ』見つけちゃったかしら・・・ふふっ」そうした『欲望』を押さえつけたまま、青年と談笑しながら歩く少女を、遠巻きに見つめる影があったことには、千枝も青年も気付かないままであった。
その日の帰り道。千枝は、青年に教えてもらった彼の勤め先へと向かっていた。「・・・ふぅ。やっぱり、ちょっと緊張するなぁ」『能力者』。千枝が物心ついたころには『彼ら』が存在する事は当たり前になりつつあったが、かといって千枝の身の周りには『彼ら』の存在はなかった。青年の勤め先は、そんな『能力者』たちを支援する組織であり、その中には千枝と年の近い少女たちも居るらしい。その話を聞いて興味を持った千枝に、「よかったら遊びにおいで」と青年からお誘いがあったのだ。「えっと、この信号で右にまがって、しばらくまっすぐ・・・・・・」メモを片手に、道を確認しながら歩く千枝。「ねぇ、ちょっといいかしら?」「・・・へ?」彼女が声をかけられたのは、その時だった。振り向くと、そこには高校生くらいの少女の姿があった。(わっ・・・凄い、きれいな人・・・)千枝が思わず見とれてしまうほど、少女には不思議と人を引き付ける『魅力』があった。「え、っと・・・千枝に、何かご用ですか?」それでも、知らない人であることには変わりない。警戒しながら返事をした千枝に、くすくす、と笑いながら少女が近づく。「そんなに恐がらなくても大丈夫よ・・・少し、お話したいことがあって」「お話、ですか・・・?」「そう、お話・・・あなたの恋について、ね?」「っ・・・!?」思わず息を呑む千枝に構わず、少女は話を続ける。
「年が離れている、っていうだけで諦めるなんて、そんなのダメよ?想いは、きちんと伝えないと」「・・・お姉さんは、一体、誰ですか・・・?」「あら、誰か、ですって?本当は『何ですか』って、そう聞きたいんじゃない?」誰にも打ち明けたことのない想いを言及され、得体の知れない恐怖を感じて後ずさる千枝と、それを意に介せず、どんどんと距離を詰める少女。静かに、しかし着実に、二人の距離は縮まっていく。「・・・さっきも言ったけど、怖がる必要なんてないのよ?だって・・・」「ッ、痛っ・・・!?・・・ぁ」突然、千枝の首筋に、ちくり、と針を刺されたような痛みが走った。千枝が横目で首元を見ると、そこには小さな蠍。「・・・私は、あなたのことを『応援』してあげようって。そう思っただけなんだから・・・ふふっ」急激に遠のく意識の中、千枝が最後にみたものは、その背から黒い翼を生やし、妖艶に嗤う少女の姿だった。
「・・・ん、電話・・・千枝ちゃんから?迷っちゃったかな・・・はい、もしもし」『あ、お兄さん。ごめんなさい、ちょっと日直のお仕事が長引いちゃって。今からだと帰りが遅くなっちゃうので、遊びに行くのはまた今度でもいいですか?」「ん、そういうことなら全然かまわないよ。また都合のいい日に連絡くれれば、都合がつけば迎えに行くし」『ふふっ、ありがとうございます。じゃあ、また明日・・・―――さん』プツッ「っ、千枝、ちゃん・・・?」「ピィさん、お電話ですか?あ、携帯ってことは、プライベートですかね?」「あ、ちひろさん。えぇ、こないだ話してた、近所の子です。今日遊びにくる予定だったんですけど、日直の仕事があって行けなくなった、って」「あぁ、千枝ちゃん、ですっけ。残念ですね」「えぇ・・・」(・・・千枝ちゃん、最後、俺のこと『お兄さん』じゃなくて『名前で呼んだ』よな・・・?)
「・・・ふふっ、これでよし。何も言わないままだと、怪しまれちゃうもんね」そう呟いて携帯をしまうと、千枝は無造作に手をかざす。するとそこに、薄い桃色の歪な球体が現れ、その球からどろり、と黒い泥が零れ落ちる。あふれ出す泥が凝り固まり、不定形な体を形作り、球を呑みこんで核とする。身体から無数の触手を生やした、『色欲のカース』が、そこに生まれた。しばらく微動だにせずその場に立ち尽くしていたカースは、不意にぴくりと触手を震わせると、その触手のあった方向へと動き出した。「・・・いってらっしゃい。しっかり、『仲魔』を増やしてくるんだよ・・・ふふっ」光の宿らない眼と、ぞくりとするような妖艶な笑みを浮かべて、『千枝』はカースを見送る。後に目撃されたそのカースは、『不気味なくらいに大人しく、一切人を襲わなかった』という。それと共に、『突然人が変わったように妖艶な表情を浮かべて異性に迫る人が急増した』という情報もあり、現在、関係性の調査が行われている。「・・・ちょっと、『注ぎすぎた』かしら」高層ビルの屋上の縁に腰掛け、その様子を『その眼で見ながら』少女は呟く。「・・・まぁ、これはこれで面白そうだし。しばらくは様子見かなぁ・・・うふふっ」少女の名は、速水奏。またの名を『色欲の悪魔』アスモデウスと言った。
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