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夕日が高層ビルの後ろに隠れると、あっという間に夜の闇が街を包みこんでいく。無機質な街灯や猥雑なネオンの光が混然一体となって、街の夜を無遠慮に飾りつける。行き交う人の流れは昼夜を問わず絶えることがなく、車のエンジン音やクラクションが耳障りなBGMとなって、どこからか吹き寄せる風と共に街をざわめかせた。
経済特区ネオトーキョーの夜は、本来訪れるべき暗闇と静寂を恐れるかのように雑然としている。
十年前、東京湾を埋め立てて建設されたこの都市は、企業に対する各種優遇措置によって進出と投資を促す一方、大学や民間の研究機関によってサイバー技術の研究が行われてきた。都市機能のすべてがコンピュータで管理されネットワーク接続されており、その高い利便性も手伝って外部から多くの人間が移住し、ネオトーキョーは急速な発展を遂げた。
ネオトーキョーで開発された高性能な義肢や人工臓器は内外の注目を集めていたが、同時に人体実験や人身売買、強制労働などの黒い噂が絶えず巷間に流布してもいた。
多くは噂の域を出ず、真面目に検証しようとしたところで一笑に付される類のものだったが、ネオトーキョーにおける若年層の行方不明者が他の同規模の都市と比べて高いとする統計データもまた存在しており、その手の陰謀論の一定の根拠となりえた。
そして、ネオトーキョーを事実上支配している企業が『ルナール・エンタープライズ』である。
ネオトーキョー成立間もなくこの都市に端を発した小さな家電メーカーはここ数年で急成長し、いまや東アジアにおける各種サイバネティックス製品の受注率トップを占める巨大企業にまでなった。一介の家電メーカーがサイバー産業の雄に成りあがった背景にはあの櫻井財閥の影があったと囁かれているが、真偽のほどは定かではない。
そのルナール社もネオトーキョーの支配者たるの例に漏れず、噂の火種に事欠かない企業だったが、噂の質においては他の企業と一線を画していた。
曰く、ルナール社のCEOが近年魔術に傾倒し、悪魔を召喚しようとしている。曰く、既に悪魔は召喚されていて、ルナール社の私兵として使役されている。曰く、ルナール社は魔界とのコネクションを得ていて、悪魔と交易をしている。
というように、かの企業の周辺には常に『悪魔』の名がついて回った。ルナール社傘下の子会社においても、午前0時に不気味な映像が流れる映画館であるとか、そうしたオカルトじみた風聞がついて回っていた。
先進科学の申し子であるサイバネティックスを扱う企業に『悪魔』の名は実にミスマッチだが、中小零細の家電メーカーにすぎなかったルナール社が急成長したのはまさに悪魔との取引の結果ではないかというオカルト好きの意見もあり、冗談半分に『悪魔の企業』と呼ばれるに至っている。
しかし、『異変』以来の世界の在りように、人々は悪魔の噂を思い出していた。世界中で現れる異能。地上に訪れる異邦人達。ヒーロー、侵略者……そして悪魔。まさか本当に悪魔は存在していたのか。ならば、ルナール社は本当に……?
誰も本気で信じようとはしないが、漠然とした不安と形容しがたい恐怖を心のうちに抱えた。
その噂についてルナール社はノーコメントを貫いたが、そのきっぱりとした否定をしない姿勢も、噂話に付き合って道化を演じて見せる度量の大きさというよりは、本当に悪魔と通じているのではないかという不気味さを演出するのだった。
――――――――――
少女は狭い路地裏に小さな身体を滑り込ませ、入り組んだ路地を迷うことなく駆けていく。
横向きにならないと通れない隙間を通り、突き当たりに吹き溜まるゴミ箱を足場にしてフェンスを乗り越え、誰もいないバスケットコートに降り立つ。突然の闖入者に驚いた野良猫が慌てて飛び退いた。
少女はコートの真ん中で立ち止まって荒い息を整える。病的なまでに白い肌を紅潮させ、手首が隠れてもまだ余るほど長いパーカーの袖で額の汗を拭った。ネオトーキョーに吹き付ける生ぬるい風が、汗まみれの身体を撫ぜた。
「に、逃げ切った……かな……?」
少女はこの区画に一度ならず訪れているので、迷わず逃げるルートを定めることができた。その上、こういう場所は違法改造のサイバネ義肢を取りつけた不良や、モヒカン頭のならず者の溜まり場になっていてもおかしくないところだが、今日は運がいい方だ。得体の知れない連中に追いかけられているのを無視すれば、の話ではあるが。
ようやく息がつけるようになった頃、早く家に帰ろうと足を踏み出すと、足元に黒光りする短剣が突き刺さった。
面食らった少女が顔を上げると、コートを囲むフェンスの支柱の上にふたつの影があった。
ひとつは、漆黒の装束に身を包み、口元を仮面で隠した大柄な人間。
もうひとつは、全身を銀色の鱗で覆った、トカゲともイグアナともつかない六本足の爬虫類。
彼らは獲物を追い回す猟犬のように、決して少女を見失うことなく、執拗に、そして着実に距離を詰めていた。まるで疲れ知らずの機械のようでもあり、事実、少女を始末するという指令のみを遂行するマシーンだった。
「もう逃げられんぞ。貴様は袋の鼠だ」
人工声帯から発せられる声が、作り物の違和感を伴って少女の鼓膜を震わせる。
「我らが『儀式』を見てしまったのが運の尽き。ここで死ぬがいい」
男が左腕に装着した端末に触れると、六本足の怪物が甲高い鳴き声を上げてフェンスから降りる。
「う……!」
怪物は、大型犬ほどもある威容に思わず後退りする少女を、巧妙にコートの隅まで追いつめていく。高い知能ゆえか、男が操作する端末で細かい指示がなされているのか、少女にはわからなかったが、自分が危機に瀕していることは嫌でも理解できた。
大きな口に生え揃った鋭い牙を光らせ、怪物がじりじりと迫る。
「やれ、ニーズホッグ」
男の指が端末の画面をひと撫でし、最後の指令を下す。指令を受けた怪物――ニーズホッグは、少女に飛びかかった。
(……っ!!)
その瞬間、少女の内奥に『何か』が脈動した。自分の中から何かが抜け出る感覚。ぐんと引っ張られるような圧力を感じ、寒気にも似た違和感が全身の肌を粟立たせる。
心身を凍らせるほど冷たく、自分も周囲も焼き尽くすほど熱く激しい衝動。怒り、憎悪、恐怖……言葉はあっても、いずれにカテゴライズすべきか判然としない。ただ、自己の生命を守るためだけに、『それ』は現れた。
ニーズホッグの牙が少女の肌を食い千切ろうと迫った刹那――彼女から抜け出た『それ』の拳が怪物の横っ面を強かに打ち据え、折れ砕けた牙の破片を撒き散らしながらニーズホッグが吹き飛ぶ。
少女は一瞬の出来事を茫然と見送って、『それ』の後ろ姿を注視する。
「あ、あの子……また……!」
少女と同じくらいの身長の、人型の『それ』は、少女を守るように立ちはだかった。
その姿を見て、男も顔色を変える。
「貴様ッ……! まさか、『ゴースト』を扱えるというのか!?」
忌々しげに叫ぶ男は、すぐさま端末に触れて操作を行う。すると吹き飛ばされてフェンスに叩きつけられたニーズホッグの身体から銀色の燐光が漏れ出し、やがてその身体が光の粒子と化して虚空へ消えていく。ニーズホッグが完全に消え失せたことを確認すると、男はひりつく悪意を滲ませた目を少女に向ける。
「まさか『ゴースト』を持った奴だとはな……ここは引いた方が身のためと見た。 覚えていろッ! 小娘ッ!」
そう言い残し、男はフェンスから隣のアパートの屋根へと飛び移り、瞬く間にネオトーキョーの夜の中へと飛び去って行った。
少女が危機が去ったことを知覚すると、少女のそばに立ちつくしていたもの――『ゴースト』もまた消え失せ、少女の内奥へと戻って行った。欠けていた何かが満たされる感覚に、少女は安堵感を覚えてその場にへたり込んだ。
とはいえ、危険がなくなったわけではない。当分はあの連中に狙われるであろうことは疑い得ず、また戦わなくてはならないかもしれないのだ。少女の内奥にいる『あの子』は、少女を守ってはくれるが……
「ど、どうして……こんなことに、なったん……だろ……」
趣味の心霊スポット巡りの一環として廃工場に忍び込んだのが、すべての元凶だった。工場の奥で怪しい黒装束の連中が『儀式』を行い、先程のような怪物を生み出し――いや、召喚しているところを見てしまったのだ。急いでその場から逃げ出したが、忍者のような男に追い詰められ、その結果『あの子』を外に出してしまった。
ひょっとしたらもうこの街にはいられないかもしれない。家族にも危険が及ぶかも――どうしたらいい? どうしたら……。
繰り返し呟く自分の声が頭の中に染み入り、出口のない思考をますます混濁させていく。
しかし、『あの子』は何も応えてはくれない。どうやら彼女は、少女――白坂小梅の苦悩を肩代わりしてはくれそうになかった。
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