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『“The Transfer”the after』



 ”忘却の影”──────生方キリエ(うぶかた・きりえ)が気が付くと、そこはベッドの上だった。
 既視感。
 その一言で言い表せる感覚が正しいのかどうか、キリエには分からない。彼女にはここ数日の記憶しか残っていないからだ。
 只の気のせいか、或いは失われた記憶の中にそれがあるのか。確かめる術はない。
 それでも自分の置かれている状況については見当がつく。それを引き起こした自分の行動も、覚えている。
 『世界格闘大会』に乱入し、参加選手を襲撃した。
 それは決して褒められた行為ではない。強さを競う戦いの場とはいえ、そこには決められたルールがある。それを破った自分を正当化するつもりは彼女には微塵もない。
 だが、決して正しくはなかったとしても。彼女にとってそれは必要な事だった。
 失われた記憶を取り戻す手がかりの為。
 つん、と鼻を刺激する消毒用アルコールの匂いが彼女の思考を現実へと引き戻した。
 無味乾燥な白い壁。数種の薬品臭。しん、として物音のしない静かな廊下。
 キリエが目覚めたのは病室だった。
 充分な広さの個室ではあったが、待遇が良いとはとてもではないが言えたものではない。
 快適さと対極にある境遇の理由は単純で、彼女はベッドの上に寝かせられてはいるものの厳重に拘束されていたのだった。
 試しに軽く身動ぎしてみたり、力を入れてみたりしたが一向に緩む様子はない。魔人の力をもってしても引き千切れぬ拘束具の頑強さは恐らく特別製のものゆえだろう。勿論、彼女もこんな事でどうにかなると期待した訳ではない。只の確認事項だ。
 身体に走る痛みに少しだけキリエは顔を顰めたが、痛覚があるのは悪い兆候ではない。最低限の手当てをされている事も分かった。
 相手も馬鹿ではない。彼女の力を計算した上で逃さぬよう、拘束しているのだ。
 キリエを拘束した相手。
 当然、大会運営であろう。参加選手を襲った彼女を大会運営が許す道理もなく、選手の逆襲に遭って敗れた彼女を捕らえてここへと運び込んだに違いない。
 このまま警察に引き渡されるか。
 或いは、大会運営に執拗な事情聴取を受けた後に処理されるか。
 どちらにしろ、大会の妨害を行ったキリエに待つのは好ましくない未来でしかない。
 空白の過去と、過酷な未来。
 その狭間にあるキリエの心は自分でも驚く程に静かだった。
 過去がなければ、執着も生まれないからだろうか。
 何も持たない自分には、何も──────。
 そこで彼女はふと、思い出した。
 数少ない自分の記憶。
 公園で出会った少年の顔を。
 「あの子の肉じゃが…………食べられそうにない、かな」
 少しだけ、ちくりと胸が痛む。
 口約束と言うのも遠い、只の雑談だったけれど。
 それでも、自分の中に残っているただ一つの過去であり──────未来への糧だった。
 僅かに風景が滲んだ。
 その理由は、ひどく単純だったけれど。
 その意味は、考えるまでもなかったけれど。
 彼女には感傷に浸る時間さえ与えられずに。
 廊下を歩く靴音が近付いてきて、病室の前で止まった。
 ゲームオーバーを告げる使者の訪れに違いない。
 覚悟を決めた彼女の前で、ゆっくりと開かれる扉──────だが、そこに現れた人物は。

 生方キリエの物語は、まだ終わらない。

                                <了>