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『“The Transfer” No.1』


 目が覚めると、青空が広がっていた。
 小鳥の囀りが聞こえる、気持ちの良い朝だ。背中に当たるベッドの感触が随分固いのを除けば、何も文句はない。早朝の空気は少しだけ肌寒いが、それも心地良い。
 こんな清々しい気分は果たして何年振りだろう。
 ──────────何年振りだろう?
 少女は身を起こした。固いベンチで寝ていた所為で身体の節々に痛みが残っていたが、そんな事はどうでも良かった。
 数秒。
 自分の頭の中を検索する。
 何もない。
 いや、完全にゼロな訳ではない。ただ、大事な部分が欠落していた。
 自分を構成する要素が、消えていた。
 それを記憶喪失と呼ぶ知識は残っている。囀る鳥たちが雲雀だという事も知っているし、街路に見える並木も栃の木と呼ばれる事も知っている。しかし、それを認識する自分自身が一体何者なのか──────────そこだけが綺麗に、根こそぎ、跡形もなく。
 ぽっかりと穴が開いていた。

 呆然としていたのだと思う。どれ程の時間、そうしていたか分からないくらいに。
 隣に誰かが座るまで、全く何も気付かなかったのだから。
 「…………大丈夫?」
 掛けられた言葉に俯いていた顔を上げると、そこには心配そうな表情を浮かべた可愛らしい少女──────────いや、少年の姿があった。女性寄りの中性的な顔立ちと声は、何故か少女の胸の内側を少しだけノックした。
 「大丈夫…………です」
 まるっきりの嘘という訳でもなかった。記憶が消えている事を除けば、身体の調子は決して悪くない。
 きゅるるるる……。
 少女の言葉を補完するように、健康的な腹の虫が鳴いた。
 見ず知らずの相手に聞かれ、少女は赤面する。恥ずかしい、と思う感情が消えてしまっている心配はなさそうだった。
 「あはは…………ちょっと待ってて」
 少年は道路の反対側にあるコンビニへと駆け込むと、数分も経たないうちに戻ってきた。その手にはお茶のペットボトルが二本とおにぎりが三つ。
 「僕もまだだったんだ。良かったら一緒にどう?」
 断る理由。何かに対して意見を持つには、今の自分はあまりにも根が生えていなかった。何より、空腹には勝てない。
 遠慮がちに手を伸ばしたのは一つ目の時だけで、気が付けば二つ目のおにぎりを頬張っていた。
 ふと顔を上げると、少年はまだ一つ目の半分程を食べている最中。
 「ご、ごめんなさい、つい…………」
 恥じ入る少女に対し、少年は気にしないで、と手を振った。
 「ご飯食べてる女の子って、可愛いよね。僕、家では結構料理作るんだけど、自分の作った料理を美味しそうに食べてもらうのを見るの、好きなんだ」
 可愛い、と言われた事は初めて──────────かどうかは分からないが、それでも少し心が弾んだ。自分が何者か分からぬ状況で掛けられた、自分を認める温かい言葉に。
 「コンビニのおにぎりも悪くないけど、やっぱり朝はちゃんとしたもの食べたくなるね…………君は、何か好きなものとかある?」
 突然振られた質問に、少女の思考が止まる。好きな食べ物。何も思い出せない自分には答えなど──────────。
 「…………に、肉じゃが」
 口を突いて出た言葉に、少女自身が驚きを覚えた。何故、その答に至ったのか分からない。ただ、少しだけ胸がしくりと震えた。
 「肉じゃが…………なかなか渋いね」
 年頃の少女の好みからは外れていそうな意外な答に少年も一瞬虚を衝かれたのかきょとんとしたものの、すぐに柔らかい笑みを浮かべ直して続けた。
 「でも、どっちかというと僕も和食派かな。肉じゃがも得意で、良く作ってる」
 「そうなんだ…………」
 「自分で言うのもなんだけど、味には結構自信あるんだ」
 「だったら…………食べてみたい、かも」
 何気ない会話。応じる必要などない筈なのに。
 それでも自分が何をすべきかさえ分からない少女にとって、他愛ない会話は何処かへ飛んでいってしまいそうな己を繋ぎ止める礎だった。束の間境遇を忘れ、少しだけ笑った。
 「…………さてと、それじゃそろそろ行かないと」
 お粗末な朝食を腹に詰め込み終えると、少年は立ち上がった。
 「帰るんですか?」
 「そうしたいんだけどね。ちょっと追われてて、まっすぐ帰るのは危ないかな」
 それまで安穏としていた少年の言葉に、不意に物騒な空気が混じる。
 「追われて…………」
 「うん。君も、今はイベントのせいで治安が悪くなってるところもあるから帰る時は気をつけてね」
 追われる──────────イベント──────────帰る──────────。
 心に引っ掛かる言葉。だが、それは形にならない。ただ、少年を見送る事しか出来ずに。
 目的もなく歩き始めた少女の視界に、イベントの為だけに短期間設置された大型の街頭テレビが映る。
当然のように特集されているイベント、『世界格闘大会』。そこに映し出された少女の姿は。そこに映し出された少年の姿は──────────。

 『忘却の影』 の物語は、ここから始まる。

                                             <了>