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『Moon Princess』


 ──────────はい、これで元通りです。お大事に。
 診察と治療の終了を告げる落ち着いた雅な声。ありがとうございました、と感謝の言葉を述べる患者の声に混じるのは隠しきれぬ些か以上の驚嘆の響き。
 「お代は此方に」
 別のやや幼い声と共に差し出されたお盆の上に、決して少なくない金額の現金が載せられる。
 一般の感覚に照らし合わせれば暴利としか言いようのない治療費だったが、患者の方に支払いを渋る様子はない。それは決して患者が裕福だからという理由ではなく、行われた取引が適正である事を意味する。
 平常なら、常人なら、骨折の治療に札束を積み上げたりはしない。
 だが。
 『世界格闘大会』という魔人格闘家にとっての一大決戦、晴れの場で。伯仲した実力者同士の闘いでは、一筋の髪の差が勝敗を分ける。
 己の万全を復する貴重な機会があり、瞬く間に綺麗さっぱり、受けた負傷を癒やす事が出来るというのなら。金額の多寡など問題にもならなかった。
 勿論、優勝を目指すなら治療行為を受けずにランキングを維持する選択肢もある。実際、前回までの大会の例を見ればランキング上位者はある程度のリスクを取っており、ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンのどちらの道が最善なのか、それを知る事は出来ない。治療行為を受けた選択が吉と出るか凶と出るか、それが分かるのは──────────大会終了後の結果のみ。
 「本日の患者さんは以上ですー」
 治療者──────────月の巫女の世話役である少女、蓬莱玉枝(ほうらい・たまえ)が主へと診察希望者の打ち止めを告げた。
 世話役。治療の助手ではない。
 そもそも手を翳しただけでたちどころに外傷も不調も治してしまうのだから、手助けする事など何一つないのだ。精々、俗世の不浄な金銭を主に変わって受け取る程度。それにしたところで箱でも置いておけば、それこそ賽銭箱でもあれば事足りる。そうしないのは世話役の意地とでも言うところで、主の方もそんな彼女たちの意を汲んで好きなようにさせていた。
 「一日で結構貯まるもんですねー」
 札束の入ったつづらをがさがさと振る玉枝。大金の粗雑な扱いに主から叱責の声が飛ぶ様子がないのは、主の方もまるで金銭に頓着していないからだ。本当は治療費など彼女にとっては不要なのだが、大会運営に言われて必要な手続きの一環として受け取っているだけの話である。
 「では、今日はこれくらいで切り上げましょう」
 今夜だけでも十数人の怪我を治した筈だが、疲れた様子は全くない。常人の医者ならばとてもではないが一日で完治させられない重傷さえ、彼女にとってはこの程度の事、水面に浮かぶ木の葉が揺れた程度にも感じないのだろう。
 「……あのー、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 おずおすと玉枝が主へと尋ねる。
 「何でしょうか」
 月の巫女は仕える者に対しても丁寧な物腰を崩さない。相手に応じて態度を変える──────────そんな必要などない、超然たる存在だった。
 「えっと、何故お引き受けに?」
 当然、この治療役の任についてである。大会運営が月の巫女に接触してきた際、傍に控えていた玉枝はてっきり考える余地もなく断ると思っていたのだが、彼女は予想に反して実にあっさりとその依頼を受諾したのだった。
 金銭や名誉といった、世俗に塗れた理由でない事は聞くまでもなく分かる。さりとて、旧知の間柄からの頼み事ゆえ、という風でもなかった。
 「ただの気まぐれですよ」
 浮かべられた神秘的な微笑からは、何も推し量る事は出来ない。そして気まぐれと言われてしまえば、玉枝にそれ以上の説明を求める言葉は出てこない。悠久を生きる主にとって何より大切なのは、退屈を紛らわせるささやかな催し事なのだ。
 「そうですかー……」
 「もう一つ理由がない事もないのですが」
 「何です…………?」
 ぱちぱち、と瞬きしてその理由を問う玉枝。
 だが、月の巫女ははぐらかすように微笑んで。
 「どちらにしろ、あと一週間は飽きずに済みそうです」
 大会一日目の夜は、こうして更けてゆく。

                                                    <了>