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『Silent report “What's Choro-in?”』

1

 「Choro-in……ですか?」
 某国のとある国家機関。直属の上司の前に出頭し、不動の姿勢で女性調査官は秀麗な眉目を寄せた。遡れば中世貴族に端を発する名家出身の彼女ゆえに、そんな仕草さえ優美に思わせる。
 「そうだ。今回君に調査してもらう案件の鍵を握る重要な単語だ。日本の言葉らしいがね」
 彼女は若くして調査官を務めるだけあって、語学にも堪能である。極東支局に在籍する彼女は当然、極東でも重要な政治的戦略的意味を持つ日本という国の言語もネイティブレベルでマスターしていた。だが、その彼女でさえ聞いた事がない単語だ。
 「何かのスラングですね。『Choro』は『容易い』、つまりeasyという意味に取れますが、『in』……こちらは同音異義語が膨大です」
 流石の彼女も聞いた事のない単語の意味を想像するのは限度がある。無駄な努力は止め、上司の言葉を待つ。
 「後半の『in』は『heroin』から来ている。つまり『Choro-in』とは落としやすい女性、或いは落とされた女性という意味だ。恋愛的な意味でね」
 「はぁ…………」
 思わず気の抜けた、彼女にしては珍しい生返事が出た。他人の色恋に口を出す趣味のない彼女にとっては覚えておく必要性をあまり感じないスラングで、任務との繋がりが全く見えてこないからだ。
 「君に調査してもらいたい人物…………その少年は、周囲の女性を『Choro-in』化させる能力を持つ魔人である可能性がある」
 上司の話が少しずつ見えてくる。同時に、途方も無い重要性を帯びて。
 「人類の半数は女性であり、その比率は魔人も変わらない。もし、魔人のうちの半数…………すなわち女性を全て自陣営の味方に出来るとすれば? そこまで行かずとも、何がしかの影響を及ぼす事が出来るとすれば?」
 浮ついた話という先入観は、既に女性調査官の頭から吹き飛んでいた。これは言葉以上に由々しき事態だ。
 「女性を動かす重要な情動ファクター。時に金や名誉よりも優先されうるもの。それは…………」
 「恋愛」
 馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、それは古来より脈々と受け継がれてきた人間の──────────女性の本質なのだ。恋は女を盲目にし、愛は女を強くする。有史以来、数々の悲喜劇を生んできた、人間の営みだ。
 「つまり、その少年の協力を得られれば……或いは、身柄を押さえれば」
 「そうだ。我が国は強大な力を手にする事になる。戦略核や衛星兵器など比べ物にならない、力だ」
 例に出すまでもないが、世界で最も有名なスパイ映画の主人公。彼は毎回危機に陥るものの、時には敵側の女性さえ籠絡し、不可能としか思えないあらゆる困難な任務を達成する。
 逆ハニートラップ。そんな単純な言葉では済ませられない力だ。敵対勢力から半数の魔人能力者を、権力者を、実力者を自陣営へと引き込む。
 それが叶うなら──────────陳腐過ぎる言葉を敢えて使うなら。
 世界征服さえ、夢ではない。
 「更に、これは精度の低い未確認情報だが…………あの鉄壁不倒の”転校生”さえ『Choro-in』に変えてしまったという噂もある」
 ”転校生”。それは通常の魔人さえ凌駕する圧倒的な存在。無敵の象徴。それさえも御する事が出来るというのなら──────────。
 「成る程…………それで私の出番という訳ですね」
 彼女は権謀術数に長けた調査官であり、同時に強力な魔人だった。特に異性相手の交渉と工作には定評があり、自国の敵対勢力から仮想敵国に至るまで幾つもの相手から有益な情報を引き出し、或いはその力を削ぎ、自国政府に貢献してきた。色事の絡んだ潜入工作において彼女の右に出る者はいない。
 「お任せ下さい。必ずやその少年を我が国に『協力』させてみせます」
 硬い表情から変化し、浮かべた蠱惑的な微笑。それは彼女の能力を知る上司さえ一瞬心を奪われそうになる甘い罠だった。

2

 日本へ向かった彼女──────────ヴィルジニー・ピエージュ調査官からの定期的な報告が、それまでは順調に推移していたように思えていたそれが、ある一時を境に一向に事態の進展を見せぬ無価値な報告へと変わり果てた事で、彼女の上官は案件の真実性を確信する。ミイラ取りがミイラに──────────いや、もっと適切なその国の言葉で言えば「信じて送り出した調査官が骨抜きにされて……」という事態になった事は事実だが、それならそれで対象の重要性も増し、いよいよ本腰を入れるべきという事だ。
 そんな折、おあつらえ向きのイベントの情報を入手した彼は次なる行動──────────実力行使に移る。
 趣味の格闘技観戦で生まれた人脈が、こんなところで実を結ぶ事になろうとは。
 プライベート用に登録していた番号へ、電話を繋ぐ。パトロンとして活動の支援を行っていた相手はすぐに電話に出た。
 「…………やぁ、元気にしているかね? この前のファイトは見事だったね。さて、早速ですまないが実は君に是非とも参加してほしい格闘大会があってね…………」
 水面下での静かな動き。
 だが、これは決してここだけで起こっている暗躍ではない。少年の居住する日本は言うに及ばず、先進国から途上国、そして国家に縛られない秘密組織に至るまで。拳を交えぬ目に見えない戦いは既に始まっていて。

『世界格闘大会』開催が宣言されたのは、その直後の事だった。

                                                  <了>