支倉凍砂先生、自身が神であることに気付く

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*自分は神なのではないだろうか? ---- 二月二日の独り言 ○世界は相対的に存在するのか,絶対的に存在するのか。 例えば,AさんとBさんが居て,AさんがBさんを認識するから,Bさんは世界に存在し,Aさんは世界を認識するから,そこに世界が存在している。 その逆も,同時に起こるものとする。 つまり、Aさんが死んでもBさんが生きている限り,BさんはCさんを見たり世界を旅したり…と,世界が消える事は無い。 この場合,AさんとBさん,または他の人間達と相対的に世界は存在している事になる。勿論,相対的なのだから,他の人間から見ている世界と, 自分の見ている世界は重なっており,互いに影響しあうというもの。 その逆。 Aさんが生きているからこそ,世界が存在する。 この場合は,無条件でそのAさんと言うのは,自分自身と言うことになる。 つまり,BさんもCさんも,世界も,自分が生きて認識するからこそ存在するのであって,自分が死ねば世界と言う物は消滅する。 第一、生きている間でも、もしも世界が自分が認識した時だけ(生きているときだけ)存在している絶対的なものだとしたら,自分の認識のそとにある隣の家だって, 実は存在していないのかもしれない。 隣の家が存在するのは,自分がそこの家の中を認識した時だけ。玄関から出れば,過去の映像として存在はするが,現在と言う隣の家の存在は,消滅する。 最終的に死んでしまえば,ビックバンも何も関係無く,宇宙も,地球も,何もかもが全て無くなってしまう。 小説に書きましたが,「無」すらも無い。無いと言う概念すらが無い。 世界がそこに存在するのは,偶然自分が世界と言う物を認識できる立場にあるから。 この場合,自分は神なのではないだろうか? http://web.archive.org/web/20010311193303/http://yokohama.cool.ne.jp/chinakiss/dia2.html

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