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「3」(2013/06/02 (日) 20:44:09) の最新版変更点

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上海都市部郊外、廃墟の立ち並ぶ無人区画は、局地的にではあるが平時の静けさからは考えられない激戦区と化していた。 　その舞台が奇特なら、この戦いの組み合わせ自体も異常なものだった。 ナチス戦闘団(ドイツ第三帝国)の部隊と、青幇(香港マフィア)の実戦部隊。それぞれが互いの目的を持って争うなど、非公式の場とはいえそうそうありえる話ではない。 市街戦と室内戦を繰り広げて、銃弾が激しく飛び交う熾烈を極める戦いは、人の気配から遠く離れている上、この深夜の闇の奥深くに紛れて、警察などの諸勢力が介入する様子はない。 あるいはそのように根回しがされているのかもしれないが、夜が明けない限り横槍は入らない、というのをいいことに双方とも完全に攻勢に容赦がなかった。 青幇に投入されている戦闘員は、せいぜい互いに五十人強――一個小隊程度の規模でわずかに劣っているが、何せ彼らには補給の底がない。ここは彼らの庭であって、完全なよそ者であるナチス戦闘団は地力の差で押し負け始めていた。 「まさか、ここまでやるとは……」 　作戦本部で指揮官は唸った。彼とて潜入先に根を張る勢力に、作戦決行時に妨害を受けることを考えていなかった訳ではない。そのための事前調査も済ませていた。中国最大のマフィアという組織を決して舐めてかかってはいなかった。 　が、いくら何でも動きが迅速に過ぎた。まだ白薔薇と中国娘を最初に襲撃してから一時間と経っていない。にも拘わらずこれほどの部隊の展開と、情報伝達の速度――――あらかじめ網を張っていたのもあるだろうが、敵の指揮官の力は相当なものらしい。 「包囲陣形を突破したという、中国娘(チャイニーズ)の仲間は？」 「今、単身で形態変化した第六番と戦っている模様。しかし……連中、どこまで知っているんでしょう」 「ここまで力を入れている以上、ある程度の情報はつかまれているだろうな。おそらく、私たちを出し抜いて第六番か第七番のどちらか、あるいは両方を捕獲し、交渉材料にでもするつもりだろう。――――まあ、もう遅いがね」 「では、撤退を開始してもよろしいですか」 「ああ」 　ついさっき、第六番が標的を捕らえた模様、という斥候からの報告があった。 あの女が既に手中にある以上、第七番を制御してあらかじめ用意していた退路を使って撤退すれば、それでこちらの目的は遂行される。 「では、私はそちらの方へ――勝利万歳(ジークハイル)」 「勝利万歳(ジークハイル)」 　幕引きは近い。たとえ防衛線が破られようと、第六番に蹴散らせさせれば彼らの勝利は揺るがない以上それは必定――と、第三帝国の戦闘団は、そうして勝利を信じて疑わなかった。 そこはただ、哀しみのみが在った。 　どす黒い憎悪の水底で、それは狂わんばかりの悲憤を込めた慟哭(うた)を、誰に聞かせるでもなくひたすら独りで紡いでいる。 　もう二度と叶わず届かない思いを込めて、滂沱のように涙をこぼし、殻に閉じこもり殻の外に呪いを噴き出させる、それはまさに文字通りの毒婦だった。 途轍もない悪寒を強いられる。五感を奪われ、体は動けず、完全な縛鎖に囚われた状態で、耳を塞ぐこともできず呪いを受け続けるしかない。 また、汚泥から流れてくる侵食の縛鎖の影響か、誰かと繋がっている奇妙な感覚を味わわされていた。気づけば、思念が直接流れ込んでくるように、決して己の記憶にない夢を見せられている。 これを引き起こしている怪物との繋がりもあるにはあるが、あまりに黒く染まりすぎて何も分からない。ゆえにそれは、ここに同じく閉じ込められた少女のものだろう。 そんなものは知りたくない。知る必要などないと跳ね除けても無駄だった。 やはり同じ歌が繰り返し脳裏に響き続け、まるでオペラのようにその悲劇譚は語られる。 〝――Werreitet so spät durch Nacht (こんなに遅く夜と風をついて、馬を走らせてゆくのは誰？)――〟 〝――――Es ist der Vater mit seinem Ki(それは子どもを連れた父親)――――〟 〝――er hat den Knaben wohl in dem (父は子を腕に抱き)――〟 〝――――er faßt ihn sicher, er hält ih(しっかりとつかみ、温かく抱きしめている)――――〟 〝――――Mein Sohn, was birgst du so ba(わが子よ、なぜそんな怖そうに顔を隠すのだ？)――――〟 〝――Siehst, Vater, du den Erlkönig(お父さんには魔王が見えない？)den Erlenkönig mit Kron und Sc(冠をかぶって尻尾を垂れた魔王が？)―― 〟 〝――――Mein Sohn, es ist ein Nebelstr(息子よ、あれはたなびく霧だよ)――――〟 　とある一人の少女は十歳の誕生日を迎えるより先に、血の繋がった家族を全て殺された。 　理由は単純。お前たちは罰を受けるべき民族だと――――そんなどこまで遡ればいいのか分からない祖先の罪業を、狂信者によって糾弾されたのだ。 　そんな大儀を掲げながら、その少女をそのまま金のために人身売買組織に売り渡すのだから、筋も何もない矛盾だが、とかくそんな理不尽な人種差別によって、少女の人生はどん底に落とされた。 　最初の買い取り手のところでは奴隷同然の扱いを受けた。食事は水と固いパンのみで、衣服は小汚い布一枚。失敗すれば主に殴られ、主の機嫌が悪いと何をした訳でもないのに怒鳴られ、飢餓と重労働に苦しみながら、無理矢理にこき使われる。 そんな家畜のような日々にとうとう耐えられなくなり脱走するも、今度はその日の夜の内に野宿していた路傍で、たまたま帰宅途中の少女趣味の変態好色男に犯され、そのまま連れ帰られて男の自宅に監禁されての折檻地獄という以前の方がまだはるかにマシな生活が始まった。 　まるで運命が彼女を決して逃がさない、とでも言うような悲劇の連鎖に、少女の精神は確実に歪められていった。 〝――Du liebes Kind, komm, geh mit (かわいい坊や、わしと一緒にいこう！)――〟 〝――――gar schöne Spiele spiel ich mi(おまえと楽しい遊びをしてあげるよ)――――〟 〝――manch bunte Blumen sind an dem(岸辺にはたくさんの色とりどりの花が咲いているし)――〟 〝――――Meine Mutter hat manch gülden (わしの母は金の服をたくさん持っている)――――〟 〝――Mein Vater, mein Vater, und hö(お父さん、お父さん、聞こえないの？)――〟 〝――――was Erlenkönig mir leise versp(魔王が声をひそめてぼくに約束しているのが？)――――〟 〝――Sei ruhig, bleibe ruhig, mein (静かに、静かにしていなさい、我が子よ)In dürren Blättern säuselt der(枯葉が風にざわめいているんだよ)――〟 　 何をした。何をした。自分が一体何をした。 ほんの少し前までは、祖先の罪を問われても鼻で笑って、何を馬鹿なと返せた。だが、今は神までもが己を断罪しようとしているとしか思えない。これでは本当に罰を受ける罪人のようで、惨めで哀れで悔しがるしかなかった。そんなものに覚えはなく、十字架を背負わなくてはならない理由が全くもって分からなかった。 では何故こんな理不尽がまかり通ってしまうのか。 毎日のように犯され嬲られ辱められる責め苦にあい、悲嘆と絶望に明け暮れた先で、彼女は一つの真理を理解する。 　弱肉強食。弱い者は、強い者に喰らわれるしかない。 この世はそういう風に出来ていると、温もりと優しさと居場所を同時に蹂躙され、どん底に落とされたがゆえに、少女は幼くして生存競争の本源にたどりついていた。 そして純粋であるがゆえにそれを悟った少女の行動は、驚異的なまでに残虐かつ冷酷に事を成した。 気が付いたら、夜風が吹く外に出ていた。あの男の趣味で着せられた白いドレスがヒラヒラと揺れている。それはまるでクラゲのようにふわふわとした今の少女の心を象徴しているようだった。 夢から醒めるように戻ってくる五感が最初に伝えてきたのは、生暖かい人肌の温もりと、首を絞めて骨を握り潰した感触。 そうして徐々に己が何をしたのかを悟った少女は、月を仰いで凄絶な微笑を浮かべた。 「――ああ、最初っからこうすれば良かったのか」 　己がずっと閉じ込められていた民家を背にして失笑する。この程度で終わってしまうほど運命の縛りとやらは弱かったのか、と拍子抜けすら覚えてしまうほどだ。 こんな形であの日々が終わってしまうのは完全に予想外だったために、これからどうすればいいのか分からず、途方に暮れた。 「……お母さん、お父さん」 　知らずこぼれたのは、もうはるか遠くのように思える幸せだった頃の記憶。何も不自由がなく何の不満もなかった陽だまりのように優しいあの日々。 　そうだ、あの頃に戻りたい――――それが少女の偽らざる本音だった。 「あなた、どうしたの？　こんな時間にそんな格好で……」 「！」 　周囲への注意が完全に散漫になっていたからか、声をかけられるまでその存在に気付かなかった。 黒縁の眼鏡と楚々とした佇まいから母性を感じさせる、若くも淑やかな美貌を持つ女性だった。おおよそこの世の汚れとは無縁そうな、少女にしてみれば眩しくさえ映る上品さが所作から垣間見える。しかしそれを嫌味には感じることはなく、人のよさそうな雰囲気からして、少女に声をかけたのも純粋な気遣いからだろう。 　だが、少女はそんなことなど関係なく、静かな殺意を揺らがせた。ここで事情を聞かれては面倒なことになりかねない。誤魔化そうにも、こんな格好でしかも体中に折檻の跡が残っていては怪しまれるのは必至だ。 あれを殺したことに何の後悔も憂いもなかったが、世間はそれを許しはしないだろう。たとえ己が暴行を受けていたと証言したところで、またこの血筋を忌み嫌う迫害意識が働かないとも限らない。 ならば、ここで、このまま―― そう考えて動こうとした少女はしかし、 「ぁ……れ」 　そのまま糸の切れた人形のように地に倒れ伏してしまった。どうやら、今さらになって監禁と折檻によって溜まりに溜まった疲労と精神的苦痛が堰を切り、限界が訪れてしまったらしい。体中から嫌な汗が滝のように噴き出し呼吸が乱れて、指一本動かせない脱力感にさいなまれていた。 「どうしたの、大丈夫!?」 　ほんの数瞬前に殺意を抱かれたなどとは露知らず、女性は駆け寄って少女の半身を優しく抱き上げ呼びかけていた。赤の他人にこれほど必死になる人間というものは初めて見た気がする。それとも悪意にさらされ続けてきたせいで、価値基準が狂ってしまったのかもしれない。 　口で話して何とか騒ぎにならないようにしようと試みるも、朦朧とした意識ではうわ言になるばかりだった。 「……わたし、は。いやだ、もう。わたしは、わるくない。わるく、ないのに」 「ちょっと、しっかり！」 　残響のように彼方から女性の声がする。もうこれ以上意識を保ってはいられず、今にも手放してしまいそうだった。 　ああ、次に眼が覚めるのはどこだろう。警察か、病院か、それともまたどこかの掃き溜めか。いずれにせよ、結局やはりこの運命から逃れることはできないのか――と、もはや諦観の念すら抱いて、少女はゆっくり眼を閉じた。 〝――――Willst, feiner Knabe, du mit m(いい子よ、わしと一緒に行きたくないのかい？)――――〟 〝――meine Töchter sollen dich wart(わしの娘たちにおまえの世話をよくみるよう言ってある)――〟 〝――meine Töchter führen den nächt(わしの娘たちは夜ごと輪舞を披露し)――〟 〝――――und wiegen und tanzen und sing(揺すり踊り歌ったりして、おまえを寝かしつけてくれるよ)――――〟 〝――und wiegen und tanzen und sing(揺すり踊り歌ったりして、おまえを寝かしつけてくれるよ)――〟 〝――――Mein Vater, mein Vater, und si(お父さんお父さん、あそこに見えないの？)――――〟 〝――Erlkönigs Töchter am düstern O(暗いところにいる魔王の娘たちが)――〟 〝――――Mein Sohn, mein Sohn, ich seh (息子よ息子よ確かに見えるとも)――――〟 〝――es scheinen die alten Weiden s(古い柳の木立が灰色に光って見えるんだよ)――〟 次に目を覚ましたのはそのどこでもなく、ほの明るい部屋に据えられた、白く柔らかいベッドの上だった。 　まぶたを開けるだけの体力しか戻っておらず、まだ四肢をまともに動かすこともできなかったが、心地好い温もりと鼻腔をくすぐる柔らかいアロマの香りのおかげで、気分はときほぐされていた。 　傍らにいたのは、意識を失う前に見た女性。安心させるように優しく微笑む姿が、少女が昔風邪を引いた時に看病してくれた母親と重なった。 　ベルタ・エディンガーと名乗ったその女性は、あの後に病院にも警察にも行かず、自宅に少女を運んで丸三日は昏睡していたのを介抱していたらしい。 結果的に助かりはしたが、違和感はぬぐえない。事情を知らないのに、どうしてそんなことをしたのか。ベルタは話そうとはしなかったので少女の方も聞かなかった。彼女はこの家に一人で暮らしているらしく、他に少女を知る者がいないために問題はなかった。 結局、あの男の死体が発見されても、ベルタは何も言わなかった。 ベルタは後に少女のために医者を直接自宅へ呼んだ。結果、少女の身体は極度の虚弱体質と化していたことが発覚する。 度重なる精神苦痛と、劣悪な環境で衣食住も満足に与えられなかったせいで、体力不全を起こしてしまっているのだという。 　笑い話にもならない。たしかに連鎖から脱却はしたが、その代償がこれでは素直に喜べるはずがなかった。何故なら、もう己はこの弱肉強食の真理において、常に喰われる側となったということなのだから。 　生きる意味そのものすら、もう見出せない。どうせこのまま、野垂れ死ぬのが必定なら、もういっそ――――と、ベッドの上で天井を仰ぎながら呟いた時だった。 「……私の娘にならない？」 「え……？」 　脈絡も何もなく、あまりにも唐突に、そんなユメみたいなことを、ベルタは提案していた。それこそが、少女が望んでいた陽だまりなどとは知らないはずなのに。 「駄目かしら？」 「いや、でも」 「言っておくけど、冗談で言っているんじゃないからね。あなたがここに来る前に、何があって何をしたのかは大体予想がつくけれど、ちょうど家族が欲しかったし、あなたは――死んじゃった私の子に、雰囲気がどことなく似ているし」 　まさか本当にそんな理由で、ここでかくまい看病していたというのだろうか。にわかには信じ難かったが、ベルタの性格を考えると嘘をついているようには思えなかった。 　だがそれは、あのどん底に叩き落とされた日以来初めての、幸福への足がけだった。ゆえに拒否する理由など見当たらないのだが―― そんなずっと望み続け、しかし諦めかけたものが、いきなり降って沸いた機会にはどうしても当惑してしまう。 「でもその前に、そろそろ名前を教えてくれない？」 「あ、はい……」 　どうしてか敬語になってしまうのが可笑しかったが、彼女は喜びで高鳴る胸を押さえて名乗りを上げる。 「私は――――▇▆█▅▇▆▃▂です」 きっとこれから先の未来が、刹那の一つ一つに至るまで素晴らしい陽だまりのような幸福になるという期待を抱いて。 そしてそれは現実になった。その日以来、ベルタは本当に少女を愛娘のように扱い、そして少女も本当の母親のようにベルタを慕った。 最初の内こそは、互いがそういう存在を望んだからそれを演じ合った、と言われても否定はできなかったかもしれない。だが、いつしか意識せずともそれを自覚できるようになり、偽りだった母娘の絆は、徐々に真の堅さを持つに至った。 温かい食事も、柔らかい寝床も、女の子らしい服も、全てが久しぶりで、少女の歪みが徐々に解きほぐされるほど、ベルタの愛情は深かった。 「私は考古学者になりたかったの」 　これもそんな幸せな日々の一つ。在りし日の夢を娘に語るその様子は、以前までの寂寥感はなく、活き活きとしていた。 「じゃあ、母さまの持ってるあの古い物の山って……」 「あれは私のおじいさんがくれた物よ。ものすごい蒐集家でね、よく私に珍しいものを見せてくれたわ。この夢も、おじいさんの影響だしね」 　少女はベルタの昔を懐かしむ温かい笑みで悟る。きっとその品物は、とてもとても大切な品物ばかりで、祖父の形見そのものなのだと。 「一番のお気に入りはね。――――ほら、一つだけこの部屋に飾ってあるあれなの」 「ああ、あれもそのおじいちゃんの物なんだ」 　リビングにある小棚の上に飾られた、古びてはいるものの手入れを怠らず綺麗に保管されたそれは、独特の光沢と雰囲気を放っている。 「おじいさんもとても大切にしていたし、とても綺麗で、不思議で、魅せられたから。それ自体の価値はよく分からないけれどね」 　その羅針盤は、ベルタにとって何物にも代えがたい大事な物なのだと、知らず少女は肝に銘じていた。 　それこそが、後の悲劇の火種になるなどとは思いもせずに。 〝――――Ich liebe dich, mich reizt dei(わしはおまえが好きだ、かわいい姿がたまらない)――――〟 〝――und bist du nicht willig, so b(おまえにその気がないのなら、力づくだぞ).――〟 〝――――Mein Vater, mein Vater, jetzt (お父さんお父さんつかまっちゃったよ！)――――〟 〝――Erlkönig hat mir ein Leids get(魔王がぼくを引っ張っていく！)――〟 〝――――Dem Vater grauset's, er reitet(父親はそら恐ろしくなって急いで馬を駆った)――――〟 〝――er hält in Armen das ächzende (うめく子どもを腕に抱いて)erreicht den Hof mit Müh und N(やっとのことで館に辿りつけば)――〟 〝――――in seinen Armen das Kind war t(その子は腕の中で息絶えていた)――――〟 ――確証などわざわざ探すまでもない。 この脳裏に流れてくる映像はきっと、ベルタという女性と、▇▆█▅▇▆▃▂と名乗った後に白薔薇と呼ばれる少女の過去の記憶だ。 であればそう――――メイはようやく、事ここに至って、どうしてこれほどこの少女に、見ているだけで嫌悪と殺意を抱くのかを知った。 ――――鏡を見ているようで。 あまりにも似過ぎていて、昔の己を見せつけられているような気がして吐き気すら覚える。 それだけならまだ我慢できた。下らない同族嫌悪程度で暴発するほど、もうその魂は荒れていないし乾いていない。 ならば何故、これほどその存在を疎ましく思い、何が何でも排斥したいと渇望するのか。 簡単だ。この後の結末を、つい先刻に彼女の口から聞いている。ゆえに直視できない。見ていられない。目も当てられない。 　彼女たちの住む国、ドイツ第三帝国にてナチス党が政権を取ってから、あの民族の迫害がさらに激化し始め、少女は隠遁生活を送らねばならず、ベルタはそれを決して気付かれないようにせねばならなかった。彼女もドイツ人だが今や己の娘であるその血を汚らわしいなどと思えるはずがなかったのだから。 だがたとえ少女の容姿が一見北欧人種だったとしても、少女にその血が流れているという事実自体まで徹底的に糾弾して追い詰めるのがナチスだ。 何より国家機関アーネンエルベ局に勤めることとなったベルタにとっては、爆弾同然の事実でもある。既に故人だがベルタの祖父は蒐集家で、考古学にも詳しい人物だった。その影響を受けたベルタが転勤先をそこに希望したのは、運が悪かったとしか言いようがない。 何故なら彼女は知らなかった。その裏の顔を。軍部に潜む奇術にまみれた闇を。 ナチスによるドイツの独裁化がほぼ完全となった時点で、ベルタの国への不信感と猜疑心は最高潮に達していた。元より誠実で真摯な性質の彼女には、新たな国の体制に馴染めるはずもないのは当然であった。 最終的にベルタが帝国を裏切り、祖父の形見である古代アーリア人の羅針盤を、どうせ奴らに奪われるくらいなら、と断腸の思いで質に流し、それで得た資金で娘共々国外逃亡をはかるにまで至り―――それは叶わず彼女たちは捕えられて、極秘の人体実験のためにモルモット扱いを受けるという、死よりも辛い責め苦を与えられた。 そして最後に実験成功、晴れて二人は揃って化け物に――――要約すればその程度だ。 メイはその仕事の性質上、もっと惨たらしい悲劇を何度も見てきた。その実態こそ異常なものの、展開自体はさして珍しいものでもない。ありふれた不幸の形でしかなかった。 そう、少女にとってのベルタが、メイにとってのシェンハオであるように、 これはメイにとってのＩＦ(もしも)そのものなのだから。 　自分があのようにならない確証が、どこにあるのか。 生きる希望をくれた存在を奪われて、狂わない保証がどこにあるのか。 メイが見せつけられているのはそういうもの。白薔薇はメイにとって最悪の未来の具現だ。その存在自体が受け入れ難いのは当たり前のことだろう。 そしてそれは、白薔薇にとっても同じだった。 彼女もメイと同じくこの汚泥に囚われた者である以上、メイの過去の記憶を嫌でも見せつけられていた。その生い立ち、境遇、巡り合わせ、諸々全て。 そして抱いた感想はただ一つ。至極単純明快で、それゆえに揺るぎない。 ――――許さない、認めない、殺してやる―――― 　あの陽だまりのような日々を、己は全て奪われ汚されたにもかかわらず、それをぬくぬくと味わい続けている者がいる。 どうしてあんなにも彼女を殺したいと魂が吼えるのか、今ならば白薔薇にもよく分かる。妬ましい、口惜しい。もう二度と戻れないあの幸せを噛み締められるのが羨ましくて仕方が無い。 それだけなら、まだ我慢ができた。他人の幸福にいちいち目くじらを立てるほど狭量ではない。 ならば何故、これほどその存在を疎ましく思い、何が何でも排斥したいと渇望するのか。 簡単だ。同じなのに、同じなのに、同じなのに、まさに鏡に写したようにその部分だけ正反対の対極図だから。 直視できない。見ていられない。目も当てられない。 そう、これは白薔薇にとってのＩＦ(もしも)そのものなのだから。 彼女と己とで、一体何が違ったというのか。 　自分があのようになれた可能性もあったはずだ。 生きる希望をくれた存在を、奪われることなく過ごせた未来もあったはずだ。 メイは白薔薇にとっての、もう戻らない最高の未来の具現だ。その存在自体が受け入れ難いのは当たり前のことだろう。 ゆえに互いが不倶戴天の障害であることに、もはや疑いの余地はなく。 　その存在を消さなければ、彼女たちは気が済まない。 「ああ、なら――」 「ええ、なら――」 　こんなところでいつまでも、囚われ続けている訳にはいかない。 その時、唐突に怪物の動きが止まった。自らが広げた黒い縛鎖に無理矢理縫い止められたかのように、あれほどの機動力を誇っていた身体を軋ませている。 「何……？」 　廃墟の屋上にいたがために、ただ一人浸食の津波から逃げ切っていたシェンハオは、単身で怪物を相手に活路を見出そうとしていた。しかし何度やっても手ごたえを与えられなかったにもかかわらず、予兆も何もなく異変が起きる。 　大きく波うつ黒い影はまるで苦しんでいるかのよう。 ここから出せと。それの中で二つの暴嵐が猛威を振るって、内側から崩壊させようとしているのだ。 「A(ァ)...A(ア)▇▆█s(ス)…█▅▄▄▇de(デ)…」 　咆哮を上げて怪物の剛腕が暗黒の大地をたたく。 静まれ、と駄々をこねる子どもを殴打するようなその一撃はしかし、逆効果だった。 「終わりにしましょう、母さま」 「今楽にしてやる。あんたのユメはこれで終いだ」 　それは慮外という次元を飛び越えた、ありえない現象の発露。 　影を突き破るように現れた二挺拳銃の銃口が、攻撃直後の無防備な怪物の顔面をゼロ距離で完璧に捉えていた。 炸裂する弾丸の嵐によって、怪物の上半身は鋼鉄のハンマーでフルスイングされたように、大きく後ろへ仰け反った。しかし無論、それだけでは致命には足り得ない。 だが今この瞬間この隙のみを狙って、極限まで気を溜め込んで研ぎ澄ましていた白薔薇が、怪物の背後の影を突き破って躍り出る。 全身全霊の力と、不死生物としての特性を全て一点に込めた斬撃が、まさしく一輪の白華のごとき銀光をほとばしらせた。 「――――」 怪物の心臓を一撃で破壊させ、半不老不死という理そのものまでもを殺し尽くし、猛り狂っていた熱が凍りつく。侵食の黒い波は全てそのまま闇に溶け落ちていった。 介錯の義は果たされ、母娘の戦いはここに終結した。 刃を突き出した腕の肘が反動で脱臼を起こしていたが、気力のみで支える。折れてはいけない。呪いを振りまくだけの悪鬼に変えられたかつての母に、最期くらいは親孝行をしたかった。 「母さま。私は、幸せでした。あなたに拾ってもらえて、あなたに育ててもらえて、毎日が陽だまりのようで、ユメのようでした。だから、だから……」 　刃を刺され、硬直したままだった怪物がわずかに動く。そこに先刻までの力はどこにもなく、今にもかき消えてしまいそうなか弱さだった。現に今にも土人形のように崩れかけている。それでも構わず大きな手が伸ばされる。白薔薇を柔らかく抱くように。 「A(ア)…………」 　その口から紡ぐ声は、既に憎悪で濁ってはおらず澄み切った響きさえあった。ゆえに、彼女が何を叫び続け、何を求め続け、何を哀れみ案じ続けていたのか、明らかになる。 「Alstede(アルステーデ)……」 　そう、正気と身体を失いながら、それでも彼女は覚えていた。覚えて、呼び続けていたのだ。最愛の娘の名を、ずっとずっと。 「母、さま……」 少女の目から、決して零すまいとしていた涙がそれで限界を迎えていた。こんなにも狂して歪み、たとえ人でなくなっても、まだ己の母でいてくれたことに、嗚咽が止まらない。 「……ありがとう、ございました。愛しています」 千の言葉が込められたその別れを聞いて、ようやく――ベルタ・エディンガーは静かに灰燼と化して消えていった。 　それを見届け白薔薇は、夜風が全てをかき消す前に哀悼の意を捧げる。己にただ一人幸せを与えてくれた母に、偽りない感謝を込めて。 　そして、その全てが余韻も残らず溶けて消えると同時に、 「――――あなたを楽にしたら私も死ぬつもりでしたが……ごめんなさい。それはできなくなりました」 静謐な雰囲気から一変して、尋常ならざる戦気を溢れ出させる。満身創痍で力を使い果たしたはずなのに、込められた気力は過去最大。 　その眼光が、歪みも狂気も何もない、ただ純粋な殺意の波動に燃えていた。 ――――決着を、と。 「……はっ、息つく暇もないってか。……上等だよ」 　それを真正面から受けたメイは、既に疲労とダメージが限界に達しているのも構わずに、同じように戦意で体を満たす。白薔薇がそうしなかったら、彼女がそうしていた。ゆえにこの戦いはもう避けられない。 　だが何もおかしなことなどない。これは先刻に流れた勝負の続きで、ただそこに込められた重みが段違いになっただけのことだ。互いに不倶戴天であるのはもう分かり切っている。ここで白黒をつけなければ、この戦いの幕は引かれないままだ。 戦闘屋として、フー・メイとして、退くことも負けることも決して許さない。 「手出しすんなよ、シェンハオ」 　有無を言わさぬ口調にあるのは、ほんの少し前に吐いた虚勢や背伸びの類ではなかった。一対一でなければ意味がない。 何故なら、対峙しているこの相手は紛れもなく自分自身だから。 余分なものの介入は、たとえシェンハオであろうと決して認めない。 その断固たる思いは相手が誰であろうと覆すつもりは毛頭なかった。 「……そうしてやりてえのは山々だがな、この状況だと難しいぜ」 　周りを改めて見渡すと、遠巻きに包囲するように膨大な数の武装した人間が、あらゆる場所に配置されている。 「これは……」 　それはナチス戦闘団ではなく、青幇実行部隊の者たちだった。 「ナチどもならとっくに撤退を始めてる。あのデカブツがどうせ全部片付けるってタカくくりやがったんだろうが、今頃泡噴いてんのが目に浮かぶな」 　己の庭で戦う地の利と戦力の差によって圧倒し、怪物という規格外がいなくなった今、完全に天秤は青幇に傾いているようだった。未だ戦闘自体は続いているのだろうが、既に趨勢は決しているらしい。 　これで少なくともメイとシェンハオは背中から撃たれることはなくなったが、この状況ではもう一介の戦闘屋でしかないメイとシェンハオの出る幕はなくなったと言っていい。既に与えられた任務は達成したも同然だからだ。 　だが、それでも二人は決して目の前の相手から目を逸らそうとはしなかった。この状況でさえ意に介さず、眼前の敵を直視している。 　邪魔をするな――――と、ただ雄弁に全身からみなぎらせる気で語っている。精鋭の実行部隊でさえ気圧されるプレッシャーに、誰も声を出すことができない中―――― 「なるほど、これはままならんな。頭の煮え立った小娘とは引き下がることを良しとせんのが常ではあるが、お前たちはさらに筋金入りのようだ」 　硬直していた戦場に、朗々たる声が響く。もう若くない年でありながら未だ壮健さを損なわない、異様に濃密な雰囲気を漂わせる青幇上海支部幹部――ファン・リーホウが異常の渦中に踏み出してきていた。 「旦那、私たちの邪魔する気か」 「ははははは、お前は相変わらずだな怠け女(ランドウニュイ)」 「すまん、旦那」 「良い、許そう。元々お前たちに与えた命令は白薔薇を捕獲せよ、だ。ならば別にこの戦いを止める理由になどなりはしない。忌々しい異人どもも追い払って、もう目的はほぼ達した」 　呵々と豪快に笑って、余興でも愉しむかのように壮年の男に、シェンハオは苦笑を漏らす。リーホウという男はこれで洒落の分かる相手で、興が乗ればそれに付き合うだけの度量を持っているのだ。無論、部下たちもそれを重々承知しており、目を丸くしているのはメイと白薔薇のみだ。 「じゃあ……」 「ああ、御前試合だ。存分に踊れよ、あれはそう易々と死にはしない以上、遠慮はいらん」 　その戦いを認めよう、と。わずかな迷いも躊躇いもなくリーホウは言い切った。 「「――はっ」」 　それを受けた二人の少女は可笑しくて笑ってしまう。何だこれは。さっきまで銃弾飛び交い異形が暴れる地獄の戦場だったのが、一転してまるで歌劇の舞台のようにされていた。いくら混沌の魔都とはいえ、その変容はぶっ飛び過ぎにも程がある。 「「はははははははははははははっ」」 　だが悪くない。主役と敵役が最後にぶつかり白黒をつけるという筋書きはありきたりだが――――相手が鏡に写した自分自身などとは、なかなかどうして劇場映えする演出だ。クライマックスにはちょうど良い。 「いい街ね、ここは」 「そうだろ、だから面白ぇんだ」 　白薔薇の大きなアドバンテージだった霊質の鎧は既に剥がれ落ち、肉体再生も先ほどまでの無理がたたって機能不全を起こしている。こんな深いダメージを負った身体では、全知の眼があっても、そもそも避けるだけの体力がない。 　対するメイもやはり、満身創痍。いくら痛覚遮断に五感増幅、活性化した肉体であろうと、ノーマルの身体で異能の攻撃にさらされ続け、満足に動けるだけの力がかなり削られている。 　ゆえにもはや、武器など不要。 互いに得物を放り捨てた徒手空拳――今より始まるのはただの路上の殴り合いと同じ、どちらかが先に倒れるまで拳をぶつけ合う血みどろの肉弾戦だ。 　締めとしては、派手さに欠ける上にいささか以上に泥臭いが、互いの生い立ちを考えれば分相応というものだろう。 　どれほど限界が近くとも、気力だけは生涯最高にみなぎっている二人は、忌々しい己を見せる鏡を破壊するため、咆哮を上げてぶつかり合った。 「今すぐママんとこに逝かせてやるよ街娼(ビッチ)。テメエのユメもここで終わりにしようや」 「なら私はあなたの愛する刹那とやらを滅茶苦茶にして、悪夢を見せてあげるわ」 ギリギリと腕力で競り合いながら、譲れぬもののために少女たちは、互いの写し身を壊しにかかっていた。 「しかし、毎度毎度ご苦労なことだな君も。これでもう何度目だ？　あの娘が招いた厄介事は」 「そんなもんはとっくの昔に数えるのを止めた」 　あくびを噛み殺すと、都合五本目の煙草に火をつける。ボカスカいう音を耳が拾うも、小娘二人の喧嘩程度にいちいち気は向けずに、シェンハオとリーホウは雑談などを交わしていた。 　無論、最初こそは注目して見守ってはいたものの、何せあのバカ二人は空が白み始めるまで延々喧嘩を続けている。さすがにこうなっては飽きがくるというものだ。ほとんど惰性で見物しているようなものであり、実行部隊の構成員たちも眠そうに目をこすっていた。 あれほど劇的な始まりだったというのに、何とも締まらないテンションである。 そんなことなど気にもせずに戦う二人は、双方ともコブまみれで血まみれになっており、端正な造形のはずの顔は、今や見るに耐えないほど醜悪なものに変わっていた。 　それでもまだ起き上がっては殴り、起き上がっては殴りを繰り返し、意識も何もない無我でよろめきながら勝利に執着している。まるでゾンビを見ている気分だ。 「あれにトラブル回避するための処世術やら目立たない方法やら、色々教えてみたが全く効果なかったしな」 　生まれ持っての極大の厄持ち。それが原因で身に着けた闘争の力は、その業と分離はできないということだろう。 　これから先もきっと、あの体質は様々な災厄を招き入れる。しかもそれは何故か自然災害や、感情のもつれや、ちょっとした民事的なトラブルではなく、決まって特大の鉄火場であった。 「でもまあ、俺は刺激がないと生きられない人間だから、あいつの体質のおかげで仕事がやっていけるし、愉しめてる」 　思い返せば、メイと出会ってから今日までは、飽きない日々がずっと続いている。それはシェンハオにとって何にも代えがたい刹那だった。確かに毎度色々と急すぎる上に、面倒臭いものも多いが、結局本心ではいつも降ってわいた闘争に歓喜していた。 　だからこそ、シェンハオはメイを相棒として傍に置いている。 　彼女が忌避される最大の理由を、愛おしいと感じているから。 「お前も相当に歪んでいるな。まあ、そこらが偶然きっちりかっちりハマり合ったということか」 「違いない。……おっ、ダブルヒット」 　互いに突き出した顎へのフックが交差して、クリーンヒットを見舞い合う少女二人。 　さすがにそれで限界に達したのか、二人は全く同時に背中からバタンと大の字に倒れた。 　双方ともにそれ以上起き上がる気配はなく、息を大きく荒げながら朝焼けの空を仰ぐのみだった。 　それで戦いは終了とみなされ、青幇の構成員たちが白薔薇の保護のために動き出す。 「まあ大体想像ついたけど引き分けか。どうだ気分は」 　シェンハオはゆっくりとメイに歩み寄って傍らにしゃがみこんで顔を覗き込んだ。 「クソが……私はまだやれんぞ……」 「バーカ。あっちも同じようなこと言ってるが、これ以上やると整形が必要になるぞ」 　額のたんこぶを指でつっついてやるだけで「うぎゃっ」などと言っているのだ。不感の痛覚が復活してしまうほどに今のメイは窮地に立たされている。これ以上の戦闘はたとえ可能であったとしてもシェンハオが許さなかった。 「ちくしょう……勝敗までつけらんねえとか、マジで鏡みてえじゃねえか」 　不服そうに漏らすも、理性ではもう続行が不可能だと弁えているのか、抱き上げてくるシェンハオに抵抗はしなかった。 　同じく、念のため四肢を拘束された白薔薇は、構成員たちによって担がれていた。こちらももう動く気配はない。 「私はどうなるのか、一応聞いていいかしらね」 　問い掛けた相手はリーホウだった。ボロボロの体でボソリと呟かれた言葉には、あらゆる感情が欠如しており、何を考えているのか読めず不気味だったが、 「まあ、殺したりはせんさ。しばらくは色々話を聞かせてもらった後に考えるとしよう。……だが個人的には、君には中々興味をそそられる。そちらが良いなら、軍門に下らせてやってもいいがな」 　そんなことを本気とも冗談ともつかない口調でこの場で言うあたり、やはり豪胆な男だとシェンハオは再認識する。人種も経歴も頓着せず、けじめさえ付ければ気に入った相手を迎え入れようとするのがファン・リーホウだ。 　己がこの男に雇われるまでの経緯を思い返し、その潔い性格が相変わらずである以上、上海の裏社会はそう変わりはしないだろう。 「……はは、不思議な人ね。いいわ、従ってあげる。ちょっと、燃え尽きて疲れてしまったし」 　白薔薇は静かに笑うと、シェンハオに抱き上げられたメイを最後に一瞥する。 「命拾いしたわね。またいつか会いに来るわ。それまで震えて眠っていなさい」 「バーカ……私はもうごめんだ、面倒臭ぇ……。次にテメエのツラを見たらソッコーで逃げてやるからな」 　視線を合わせずにただプラプラと手を振って、メイはそう返した。 「ふふ、つれないのね……いいわ。何度でも挑戦してやるから、それまでは生きていくことにするわ。フー・メイ」 「好きにしやがれ。返り討ちにしたあかつきには、墓標にwhite bitchって刻んでやる」 　死闘の末にそれだけ軽く言葉を交し合って、二人は離れた。 互いにとっての宿敵を撃滅する――――ただそれだけに燃えて殴り合った熱はとうにない。 自分たちは同じモノだ、と嫌というほど理解してしまったから。 認めたくないし、許したくもないが、決着がつかないとはつまりはこういうことなのだろう。互いの違いは些細なものでしかなく、そこに勝手に自分たちの価値観を当てはめて憤っていたに過ぎない。 「……ああ」 メイは自分を抱き上げているシェンハオの顔をうろんな瞳で見上げる。 今回の戦いで得られたことと言えば、このかけがえの無い刹那を、いっそう強く失うまいという思いが強まったことと、失ってしまった時のことを酷く恐れる思いくらいだろう。全くもって割りに合わないが――半人前の器には相応と言ったところか。 「病院行くぞ、ったく、しばらく休業だなこりゃ」 「あー、悪ぃ……」 青幇の車に乗せられていずこかへと運ばれて行った白薔薇と同じく、シェンハオもメイと共に青幇の手配してくれた車の後部座席に並んで座った。 緩やかに発進を開始する車の中で、柔らかい背もたれのクッションに全身を預けて脱力する。そこでようやく弛緩した精神が、猛烈な欲求をメイに急き立てた。 「……シェンハオ、煙草くれ」 　くわえていた火を口から放し、シェンハオは呆れるように片目を閉じる。 「この一本で最後だっつーの。……お前らが長い間喧嘩してたから全部吸い切っちまったた上、元々はお前におつかい頼んだモノだってのに」 「あー……そうだったな……」 　そういえば、最初はおつかいを頼まれただけだったのに、何故かこんな大事になってしまったのだった、と今さらながらに思い出す。 「……」 自身の災厄招来っぷりには慣れていたつもりだったが、今回のこともあってメイはシュンとしてしまった。この体質が治らない限り、こんなことはこれからもずっと続いていくだろう。その都度に迷惑をかけてしまっては、いい加減シェンハオに愛想をつかされてしまうのではないか、この刹那を失う未来を、嫌でも幻視してしまっていた。 「私は、疫病神だな」 　ボソリと、らしくないことを呟いて開いたその口に、 「……バーカ」 　スポッ、とシェンハオが吸っていた最後の一本を無遠慮に差し込んできた。さらに、目をパチクリとさせるメイの頭にポンと手を置いて、 「今回の仕事は、お前のおかげで早く終わったんだ。もっと胸を張れ。俺にとっちゃ、お前は福の神だ」 「――――」 　顔がさっと赤くなるのを自覚して、思わず顔を伏せる。危うく煙にむせてしまうのをこらえるだけで、何も言い返すことができない。 　この陽だまりにずっといていい、と言ってもらえたことが、ただひたすら嬉しくて。 この今こそが何よりも愛おしいと、煙草と一緒にその思いを噛み締めていた。 上海都市郊外の緑の丘に、一つの墓が建てられる。 Belta Edingerと刻まれた洋式の墓石には、白い薔薇が添えられ、棺の中には骨に代わって羅針盤が入れられた。 「祖国の地の方が、良かったかな」 「まさか。私も母さまも、少なくとも奴らが支配している間はあんな国に帰りたくないわ。だから、感謝しますファン・リーホウ。これで母さまも安らかに眠れるでしょう」 　リーホウが手配した葬儀も滞りなく済んで、白薔薇――今は黒い楚々とした服に身を包んでいるために、アルステーデと呼ぶべきか――彼女の望みは実質叶えられたと言っていい。 質に流れた羅針盤を上海まで追って、ナチスを誘い、母を取り返すために動き続けたのは、ひとえにこの時のためだけにあったのだから。 「では――いいのかね」 「ええ、私はもう生きる意味を失った。けれど、あの女のせいで死んでやることも嫌になった。だから――――この身をどう扱おうが、どうぞご随意に」 「では、その意味を探してやるという契約にするとしよう」 　リーホウが厳かに手を伸ばしてくる。これは悪魔の契約となるか、はたまた神の契約となるのか、その結果自体、吉と出るか凶と出るかは不明だが―― 「君もまた、青幇の刃となれ。この混沌の街は何であろうと受け入れよう」 「遵命。誓いましょう。あなた方の刃となることを」 　その絆の形がどうであれ、これもまた新たな刹那が始まる瞬間なのだという予感があったから――――目の前に道があるなら進んでみたい、と。 アルステーデは細く白い手で、しっかりとその手を取った。 終

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