[2]の変更点 - genkinovel @ ウィキ - atwiki（アットウィキ）

2

「2」(2013/06/02 (日) 20:41:06) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

正直なところ、リン・シェンハオはうんざりしていた。 　いつまでたっても帰って来ない手のかかる相棒にもだが――――それよりも鬱陶しいのはこの状況だ。何がどうなって、こんなことになっている？ 　己の住処である地下の安下宿。普段は淀んだ空気が溜まる空間だが、そこに新しい空気という名の黒煙を運んでくる輩どもが現れた。 一体どこのトチ狂った馬鹿なのか、人が優雅に晩酌を愉しんでいるところに何の前触れもなく、手榴弾なんぞを軽く中へポイしてきたのである。 　メイを外へおつかいにやってからというもの、やけに嫌な予感がひしひし感じたからこそ、玄関扉のわずかな隙間から投げ込まれたそれに、シェンハオはギリギリ反応できた。 ソファから弾け飛びリビングから出て、隣りの部屋に飛び込まなければ、今頃ミンチになっているところだ。 余波で壁に強く叩きつけられたが、何とか五体満足を維持している。が、爆風と熱で我が家のリビングは無惨に吹っ飛ばされ、粉塵が大量に舞う灰色の空間と化していた。 「あの野郎、やっぱりまた何か変なトラブル招き入れやがったな。クソが、嬉し泣きしそうだ」 　咳と涙を押し殺しながら、注意深く身を隠す。 いきなり爆弾を投げ込んでくるほど頭のネジの吹っ飛んだ相手だ。完全に殺しにかかって来ている以上、死体を確認しない限り撤退してくれるとは思えない。 「管理人のババアに何て説明すりゃいい。ナメやがって、どこの馬鹿か知らねえが、久々に頭に来たぞ」 敵の数によって出方も違うにしても、視界が晴れるまでは突入してくることもないだろうが、武器がないままではジリ貧だ。手ぬるい方法を取ってはいられない。出るなら――こちらからだ。 予想通り視界が晴れかけた時に、ジャリ、という瓦礫を踏みしめて中に侵入してくる音が聞こえた瞬間、シェンハオは音もなく駆けた。低姿勢のまま、まるで床スレスレを滑るように走って、足元の高さを未だ漂っていた粉塵に潜り紛れて、侵入者の影に飛びつく。 「眠っとけ」 「がっ……ギぅ」 　背後から首に腕を絡め、抵抗の暇を与えないまま、一切の躊躇なく頭を三六〇度に回転させた。骨をへし折った感触を実感すると同時に、侵入者の手に握られていた拳銃を、床に落ちる前にキャッチする。 「おっと」 　玄関口から銃声。外で待機していたのであろう敵の仲間が発砲してきていた。ここから確認できるだけでも二、三人。 シェンハオは掴んだままだった大柄な侵入者の遺体を盾にして、こちらも銃弾で牽制する。 「安い銃だな……」 肉の盾に身を隠したまま慎重に水平移動し、最初の時に吹っ飛ばされ、部屋の隅に転がる愛用の火器が入ったケースへとにじり寄る。ちょうど敵からは瓦礫の陰に隠れて見えない位置にあるそれまで、およそ二メートル半。 弾丸の雨が身体をかすめる。このままでは手が届く前に、数の差で押し切られてしまう。火器をこの手に掴めたとしても、幾分かの被弾は覚悟しなければならない。 当たり所が悪ければそれだけで詰みだが、他に方法はなかった。危険な博打に出るなど柄ではないが、こんなところで死ぬなど御免だ。最後に煙草も吸えない逝き方などありえない。 　汗が頬を伝う。残り一メートル半―― 「お？」 　兵たちが武装を変えるのが、その寸前に確認できた。ギョッとしてシェンハオの火器ケースへ伸ばそうとした手が止まる。 「おいおいショットガンなんぞ人に向けるんじゃねえ」 　今までとは比べ物にならない銃声が炸裂した。 凄まじい威力と貫通力を誇るそれは、明らかに遺体の盾ごと、シェンハオを射殺しようという意図からだ。あんなものでは人体など紙同然である。 　大慌てで遺体を蹴飛ばして反動で大きく逃れる。直後、散弾の直撃を受けた遺体は大きく薙ぎ倒され、血肉の塊同然となって壁にグシャリと激突した。 　転がりながらシェンハオは再び射線から逃れ、元々隠れていた部屋へと舞い戻るしかなかった。 「死体とはいえ躊躇いなく仲間を吹っ飛ばしやがるとは、戦争屋でもやってきたのか」 　この場を何とか切り抜けるために高速思考するシェンハオだが、もはや射手はすぐ近くまで来ている。いつもの装備があれば突破など容易いが、今のこちらは先ほどのどさくさでもう空手だ。 「しゃあねえ、久しぶりだが……」 　最後の切り札を使おうとしたまさに寸前、ここに新たな勢力が割り込んだ。 　銃声が部屋の外から連続して響くと同時に、複数の断末魔が立て続けに上がり始めた。シェンハオの一番近くにいた射手がそちらを振り返った瞬間、その頭が吹っ飛ばされて脳漿がぶちまけられ、ゴトリとその身体が床に倒れた。 　何が起きたのか考える前に、見知った男の声が届いた。 「シェンハオ。死体になっていてもいいから返事をしろ」 「……ここですよ、旦那」 「おう生きているな、よし流石だ」 　部屋の中に銃を携帯して悠然と入ってきたのは、ファン・リーホウだった。傍らに武装した部下を六名ほど引き連れた壮年の極道人の前で、シェンハオは安堵の息を吐いた。 　どうやら彼らは、この謎の敵がこちらを殺そうとしているところに奇襲をかけて殲滅したらしい。雇用主に救われる戦闘屋というのも情けない話だが、あと少し助けが遅かったら命はなかったかもしれなかった。 「助かった。どうしてここに？　何があった？」 「説明は後だ。全く嫌になるほどのタイミングと巡り合わせの悪さでな、状況は大きく変わった。こいつらの遺体を回収して早くここを離れるぞ」 　何かそのフレーズに凄まじく嫌な予感を覚えたが、まずはこの度重なる面倒事で膨らんだ思いを抑えなければ、どうにかなりそうだ――と、シェンハオはきびきびと動くリーホウの部下を手伝いつつ、煙草をねだるのだった。 『第一班より。標的二名、未だ逃走中。重傷者が出たが無人区画への誘導に成功、予定通り第二班に合流する』 『第二班、第三班、退路を塞げ。決して表通りに出すな。夜明けまでに決着をつけるぞ』 『了解(ヤヴォール)。第二班、標的を確認。これより戦闘行動に入る』 　無人区画の一つの廃屋の上に設置された暫定作戦指揮本部にて、上海潜入部隊を統率する指揮官は夜風に髪を吹かれながら、静まり返った街を睥睨していた。 「大尉、あの中国人の住処を調べ襲撃した班からの通信が途絶えたそうです。追加の兵を送りますか？」 「ちっ、その筋の人間だったか。いい、深入りはするな。戦力の分散も避けたい」 飛び交う無線を聞き、傍らの補佐官に目を向ける。 「それより、第六番(ゼクス)の配置は？　生け捕りが難しいなら殺して構わんという命令も出た以上、あれを使わん手はない」 「済んでいます。指定した場に予定の通り待機中です。しかし……本当に完全武装した一個分隊と、調整中の不死生物を動かすとは……」 　補佐官はこの作戦に懐疑的のようだった。無理もない。常識的に考えればもっと穏便な方法があるはずだというのに、これでは個人を相手に戦争を始めようという勢いだ。少なくともあんな小娘を拘束するために使う武力ではない。 　だが指揮官はそれを否と断じた。 「間違えるな、少女の姿をしていても、不死生物である以上は吸血鬼や人狼と同じ、正真正銘の化け物だ。先刻の事のように普通のやり方では返り討ちにあう。もはや祖国の秘宝の価値よりも、あの女が秘める危険度の方が重要性は高い。 祖国から漏洩した兵器の回収作戦だ。貴重な素体という意味でも、我らの研究が外に露見する前に手を打つという意味でも、厄介な敵性を抑えるという意味でも、早急にあれの身柄を確保しなければならん」 「あのような化け物を生み出す研究……ですか。自分はオカルトを信じない性質だったのですが、与太と信じていたものに大真面目にお偉方が取り組んでいて、さらにその尻拭いをすることになるとは思いませんでしたよ」 　ため息混じりに不敬とも言える発言をこぼす補佐官を、指揮官は咎めはせずに、苦笑をするのみだった。思うところはあるが、概ね同意だったからである。 「現代にもなって国家主導のオカルト研究機関を立ち上げ、しかも成功にまでこぎつけるなど、せいぜい我が国くらいのものだろう。まあ、それが最終的に吉と出るのか分からんがね。我らはせいぜい最後に勝利万歳(ジークハイル)と心から歓喜できることを祈るのみだ」 彼らの着る軍服の襟にある〝卐〟の紋――――鉤十字(ハーケンクロイツ)のエンブレムが鈍く輝いていた。 　街中を走る青幇の車の中で、シェンハオは衝撃の事実を聞かされた。 「ナチス・ドイツ……」 　面と向かって耳にしても、しばらく実感はできなかった。 　だが横に座るリーホウは極めて事務的な口調で再度口にした。 「ああ、君の家を襲撃したのは紛れもなく、あの国の走狗どもだよ」 数年前に政権を取ったアドルフ・ヒトラー率いるナチス党によって独裁国家に作り変えられた北欧の国――――その極端なアーリア人種至上主義によって、国を上げてのユダヤ人迫害に乗り出した集団。 「……昨日の夜の内に一体何が？」 「ああ、君に仕事を頼んでからしばらくした後で色々と進展があった。まず白薔薇に最初に殺された北欧人種の一人が、この上海で寝泊りしていた場所を突き止めた。青幇独自の調査でやっとたどりついた真相がこれだ」 　リーホウは一枚の白い紙切れを渡してきた。見ると、欧州風の紋章のようなものが印刷されている。 「これは……」 「〝アーネンエルベ〟というドイツ国家研究機関のシンボルマークだ。突き止めたねぐらに隠されていた荷物の中から、同じ紋章のエンブレムを見つけた。全く、いくら上海が列強どもに踏み荒らされているとはいえ、こんなオカルト集団までが潜入しているとはな。遺体から素性が分からん訳だ。そんなものを携帯していいはずがないからな。 この機関はアーリア人種の人種学、歴史学を研究するという目的で設立されたらしい。古代に北欧人種が世界を支配していたことを証明するためだとさ。ここまで徹底した差別意識を掲げられると、もう嫌悪を通り越して狂気を感じてしまうよ」 　ナチはドイツ人こそがアーリア人種の血を最も色濃く引いた民族であると主張している。非アーリア人種（＝ユダヤ人）を劣等人種と蔑み迫害するその執着ぶりは、非アーリア人種を公務から追放するニュルンベルク法の制定からも明らかだ。そんな危険思想のために研究機関まで立ち上げる――もはや理解できない、したくもない領域だ。 「そんなのがどうしてわざわざ上海に？」 「アーネンエルベの具体的な活動の一つに、研究資料として古代アーリア人の遺品を各地から蒐集するというものがある。奴らはそういう品を持っている者がこの上海にいるという情報を掴んで、機関の人間を潜入させて、極秘の取引をしようとしていたようだな」 「……その取引相手が、白薔薇に最初に両目をくりぬかれたあの古物商だった、と」 　勘だが、恐らくそうだろう。何だか話が少しずつ見えてきてしまった。 　白薔薇に奪い取られた、その件の古代アーリア人の遺品を取り返すために、ナチスは上海に刺客を送りこんだのだろう。 結果、それを迎え打った白薔薇に返り討ちにされる――――これが、ここ最近の北欧人種の連続殺人事件の真相か。 「……で、それでどうして、ナチどもが俺の家に爆弾放り込むことになる」 　話の流れからどう考えてもシェンハオが目をつけられる理由はない。不興を買うような行いをした覚えはないし、まともな接触すら皆無だ。正直なところ、いきなり横合いから顔面を殴りつけられたような気分である。 「君の相棒が今、白薔薇と一緒にいるからだろう」 「原因はあいつか、納得した」 「詳しい事情は分からんが、上海に潜入したナチスの戦闘団が今、二人の少女を追いかけ回しているという情報が部下から入ってな。服装の特徴からしてフー・メイと白薔薇で間違いない」 　思わずシェンハオはこめかみを押さえ込んだ。戦闘屋という職業上、不意打ちの出来事には慣れているにしても、今回は過去最大級だ。 「じゃあ何だ。メイの住処を調べて、後々面倒にならないようナチどもは俺を家ごとバーベキューにしようとしたってことか。はっ、ありえねえ、どんな頭してやがる」 　逃走を許した場合に備えて拠点と味方を予め潰す――効率のみを考慮した動きはまるで殺戮機械だ。感情が見えるだけ殺人鬼の方が可愛く思えてくる。 「しかし、いくら刺客が返り討ちにあったとしても、白薔薇たった一人に戦闘団とは入れ過ぎだと思うが。連中にとってもこの上海で派手にやらかすつもりはないだろうし。その古代アーリア人の遺産とやらがそこまで価値ある品とは思えないが」 「…………」 　急にリーホウが微妙な顔つきになって、シェンハオは少しばかり当惑した。常に剛健で泰然とした性格である彼には迷いや揺らぎというものと無縁だ。が、今のリーホウは、すこぶる言いにくそうに口をへの字にして、眉間にシワまでよせている。 「……実は、アーネンエルベには裏の顔があってな」 教えるのを渋るというよりは、まるで言葉にすることさえ馬鹿らしいとか、口にしたら自分の価値が下がるとか、そういう思いがこもった表情だった。 「もう一つの活動内容は、黒魔術だの呪術だのの怪しげなオカルトを専門とした研究だ」 　思わず噴き出す。たしかその研究機関は国家主導ではなかったか。 「事実だ。全くもって理解できんが、軍事利用のために魔術や超能力、心霊現象に傾倒するほどにあの国の者らは狂気に侵されている。自国を強化するためなら何にでも頼るということだろう。たとえそれが手から火を出せるという胡散臭い代物でもな」 　正気の沙汰ではない。国を上げてそんな無駄な研究をするとか何を考えてんだ――――とシェンハオが内心で侮蔑の言葉を吐き捨てていると、 「白薔薇はその成功例ではないか、という情報を部下がつかんだらしい」 　シェンハオは最初、その発言をどう解釈すればいいのか分からず、思考が白く染まって硬直した。 聞き間違いと疑ったのも無理はない。成功例とはすなわち、オカルトの実在を証明する代物に他ならないのだから。 「おい、そんな痴呆を見るような顔をするな。青幇の情報網を今回の件にありったけ駆使して得た情報がこれだったのだよ。正直、知らん方が良かったと思ってしまうがね」 　青幇の勢力圏は何も中国だけには留まらない。海を越えた先にも網は広がっており、その深度もまた一級だ。ゆえに情報の精度には最大限の気を入れられているため信頼度は高い。しかし、曰くリーホウに報告した部下は何度も何度も前置きを踏まえ、実際の真偽の判断は丸投げしてきたとのことだ。 「白薔薇はその極秘の研究の結果、オカルトらしい人外の力を身につけた素体だそうだ。それどういうものかまでは分からんが、ドイツ戦闘団までが出撃させられるに至った理由は、遺品ではなく白薔薇の存在そのもの、ということだろう」 「つまりナチスの本当の目的は、自らの手元から脱走して上海に逃亡したサンプルの捕獲、か」 白薔薇が逃亡した先の上海で、潜入していた研究機関の人間を殺し品物を奪ってまで、その存在をドイツに知らせるような真似するに至った経緯は不明だが、事の真偽を棚に上げて考えれば、白薔薇は国外に逃亡した生物兵器そのものということになる。 学者の考えることはシェンハオには良く分からないが、日の目に当たるべきでない研究であることを差し引いても、他国にその内実が漏洩するのは避けたいだろう。 「信じてるのか、こんな三流雑誌が好みそうな与太を」 「情報自体は全て裏の取れた真実だ。ふざけているのはその内容だけという悪い冗談のような有様だよ。こうなると自分の信義を棚に上げて行動する以外にない。正直なところ、茶番に付き合わされている気分だ」 言って取り出した葉巻を銜えると、リーホウはマッチで火を付ける。その口蓋から吐き出された紫煙がシェンハオにはまるで、火龍の口から漏れる息吹、怒りという熱を逃がすための蒸気に見えた。 「だとしても、腹の立つ話だ。奴らは愚かにも、我らの逆鱗に触れた」 口角を吊り上げて笑ってはいるが、リーホウの目は羅刹のように冷酷な眼光を放っていた。そう、その時点で細かい事情などもう関係ないと、落とし前をつけねばならぬと猛っているのだ。 「この上海で、我々の縄張りで、我々を蚊帳の外にして暴れる者どもをこれ以上放っておく訳にはいかん。ああ、別にナチどもと同じ外国人嫌悪(ゼノフォビア)という訳ではない。我が物顔で他人の庭を踏み荒らす者どもは不愉快だが、それでその人種全てを否定したりするほど私は視野狭窄ではないよ」 だがな、と区切って青幇の幹部は、憎悪と昂揚がない交ぜになった瞳で告げる。 「ここは欧州ではない、上海だ。奴らはこの混沌の街をナメ過ぎた。のぼせ上がった連中に、それをきっちりと教えこんでやらねばならん」 　上海の黒社会の大物は、車内にあった黒いトランクケースをシェンハオに渡す。ずっしりとした重量は、彼にとって手馴れた火器のそれと同じだった。それだけで、自宅で襲撃された時とは比べ物にならない戦気が充溢する。 「青幇の部隊は既に動かしてある。我々は散らばっている異人どもを横合いから殴りつけて、陣に穴を空けよう。奥へと切り込むのは君の役目だ」 「了解、あのアホもそろそろ俺に泣きつきたい頃合だろうしな」 「では、新たな命を下す。ナチどもを蹴散らし、先に白薔薇を捕獲しろ。文字通り極上の鉄火場、お前たちの桧舞台だ。存分に踊ってこい戦闘屋」 「遵命(りょうかい)、旦那」 相手がナチだろうが、馬鹿げた狂気の産物だろうが、命令を受けたその瞬間に、シェンハオは私情を捨てて鉄砲玉となる。ならば今宵は怪物退治の夜らしく、闇を切り裂く銀の弾丸となって疾駆しよう。 かくして弾薬は込められ、撃鉄は下ろされ、照準も合わされた。そして今、下される命令によって引き金が絞られる。 深い夜の奥で繰り広げられるのは、本来ありえぬ三つ巴の混沌の戦場。 一夜限りの激戦が今、ここに開幕した。 　生まれた場所は分からない。誰の胎内で育ち、どこで最初の産声を上げたのかさえ定かではない。ただ確かなのは、望まれて誕生した存在ではないということだけだった。 原初の記憶は母の抱擁ではなく、廃棄物の山の感触。どれほど深い事情があっても我が子を愛す人の親なら、このようなところに乳飲み子を捨てることなどないだろう。 どこまでも純粋な赤子であったその少女は、この始まりこそを当たり前だと飲み込んでしまった。ゆえに己が掃き溜めにいる自覚というものがなかった。このまま飢えて死んだとしても、それを嘆くだけの自我もなく消えるのみ。 だが、彼女は生き残った。身体年齢五つに達するまでの間、拾われ、捨てられるという連鎖を繰り返したのだ。 どうしてそんなことになったのかというと、その少女はどういう訳か、そこにいるだけで災いを招き寄せる忌み子だったからに他ならない。拾われたその日の内に、その一家に厄介事が相次いだのである。元々中途半端な同情と憐憫で家に置いていた者たちは、それを知るとあっさり彼女を捨てたのだ。 そうして翻弄され、知らず少女は五つの年をまたぐ間、いくつもの町を行き来した。 　あまりにも育て手が代わる代わるの繰り返しで、少女にとっての親とは、最初だけは優しく時間がくれば飽きたように捨てる大人たち、という認識しかなかった。そんな彼女が、一人で生きた方がいちいち面倒なことにならずに済む、と判断したのは至極当然と言えるだろう。 　その時の拾い手の家から、金と食べ物を持っていけるだけ持っていき、少女はようやく連鎖から脱した。しかし行くあてなどあるはずもなく、小汚い街の裏側をさ迷い、手探りで数日を過ごした。 後に、盗みを働いた家の者たちに見つかって、追い掛け回された末に半殺しにされ、始まりと同じようなゴミ溜めに打ち捨てられた時に、彼女は一つの真理を理解する。 　弱肉強食。強くなければ、戦わなければ生き残れない。 　この世はそういう風に出来ていると、真の温もりも優しさも知らずに育ったがゆえに、少女は幼くして生存競争の本源にたどりついていた。 そして純粋であるがゆえにそれを悟った少女の行動は、驚異的なまでに残虐かつ冷酷に突き抜けるようになった。 襲いかかってくる者がいたら殺す。食べ物を奪う者がいたら殺す。邪魔になる者がいたら殺す。善悪の価値観そのものを知らない少女はまるで、獣じみた野生の性質を振りまいた。 無論、非力な子どもであるがゆえに、何度も何度も殺されかけたし死にかけた。それでも結局死ぬことがなかった少女の牙は、そうしている内にどんどん研ぎすまされていった。 より正確に暴力を駆使し敵を殺すための技術、人間が本来常に眠らせている鋭敏な野生の本能――そして、ある時に半死半生の状態から戻った際に五感の一つが焼き切れたことによって、枷が外れたように大量分泌された脳内麻薬による超活動力。 それらを発現させるに至った殺人機械は最終的に、誰にも刃を向けられることがなくなった。同じ貧民街や裏路地に住む者たちさえも、化け物のように彼女を恐れ忌避した。それでも殺意をぶつける者など、彼我の実力差さえ推し計れない愚か者か、少女を知らないよそ者くらいだった。 そうして身体年齢にして未だ十一歳程度、まだ二次性徴も始まっていない頃。 主義主張、信義信念、そのどれの感慨も持たぬまま、生きる意味というものに思いを馳せることさえなく歩んだ人生についても、何も思うことがなかった。 ただ、これからもこうして生きていつか死ぬ――そんな死生観を抱いていたからこそ、 「――――ああ、これで終わりか」 今度こそ本当に、死ぬときが来たと悟った時にも、みっともなく取り乱さず、穏やかな気持ちのままでいることができた。 弱肉強食――己はこの相手より弱かったから殺される。これはそれだけの話だ。 　かつてないほど一方的にボコボコにされて、指一本すら動かせないまま、路地の壁に背を預けていた。眼前には単身で己を圧倒した男が、気安い顔で拳銃を握って佇んでいる。 こんなことは初めてで、どう反応するのが正解か分からなかったが、少女はただ素直な感想を口にすることにした。 「強いな、お前」 「そりゃ俺は喧嘩のプロで、お前は子どもだからな」 　親しみすらこもった軽い返しには、疲労の色は一切ない。なるほどその手の筋の人間だったか、と今さらながらに思い当たるが、悔しさなど微塵もなかった。 「どうして私は、お前に殺される？」 「そういう依頼があったからだ。この裏路地で暴れてる害虫を駆除しろってな」 「ははっ。なるほど害虫か、的を射過ぎてて笑えるわ」 　生まれた時から野性の世界に生きて暴力を撒き散らす存在。掃いて捨てた方が世のためになる命の価値が安い愚者。たしかにこれほど害虫然とした人間もいまい。 「じゃああんたは、掃除屋か何かか？」 「違う、俺は雇われの戦闘屋だ。荒事の時に駆り出される鉄砲玉だな」 　ああ、と少女は得心したように息を吐いた。つまりこの男も自分と同じく、主義主張信義信念も何もなく、他人を殺して食って生きる存在なのだ、と。 自分の最期にはおあつらえ向きな相手だな、と奇妙な安心感を抱いていた。 「あんた、名前は？」 ゆえに、命散らされる前に、その名を魂に刻み付けたくなった。 だが、 「ならお前が先に言え」 　そう言い返されて、思考が空白に染まった。 「……」 「何だ、黙っているならさっさと済ませるぞ」 「……ない」 「あ？」 「名前なんて持ってねえんだよ、私は」 　知らないのでも、忘れたのでもない。少女は〝少女〟でしかなく、名前など生まれてから今日まで付けられなかったし、考えてみたこともなかった。居場所を持たず、仲間もおらず、誰も呼ばない、いてもいなくてもいい存在に、そんなものは不必要だったから。 「そうか。悪かったな、余計なこと聞いて」 　男はその答えに何を感じたのか、しかめっ面で頭をガシガシと引っ掻くと、おもむろに拳銃を握り直した。銃口が額に向けられたのを見ても、少女の表情は変わらない。 ただ、 ――――ああ、結局教えてくれねえのかよ、ケチ。 そんな拗ねた子どものようなことを思いながら、ほんの少しだけ名前を持っていなかったことを後悔していた。 　パン、という乾いた音が裏路地にこだまする。 　それが人生最後の、鼓膜を震わせた音――になるとばかり思っていた少女は、 「……な」 　自分の顔と肩の間に銃身が入り込み、後ろの壁に弾丸がめりこんでいるのを見て、何が何だか分からず、目をパチクリとさせた。 「……そういう奴見てると我慢ならねえんでな」 「ぁ、うわっ！」 　いきなり腰に手を回されたかと思うと、腕一本でひょいと担ぎ上げられる。まるで荷物みたいな雑な扱いだった。完膚なきに叩きのめされたせいで抵抗する力がない少女は、小動物のようにわたわたする以外になかった。 「この、何をっ、して」 　少女にはまるで意味が分からなかった。こんなことは道理に合わない。弱肉強食の摂理に反している。この男もそれを弁えていると思っていたからこそ解せなかった。 「気が変わった。医者に診せた後、お前を連れて帰る」 　それを聞いた瞬間、全身が総毛立つ。またあの連鎖に囚われるのか、という恐れが、弛緩していた意志を締め直していた。 「やめろ……！　中途半端な同情で私に構うんじゃねえ！　もう嫌だ、もうこんなのは嫌なんだよ！」 「知るかボケ。俺が拾ってやった命だ。どう扱おうが俺の勝手だ」 「は、はあああ!?」 　あまりに傲慢な暴論に、少女は言葉を失い口をパクパクさせた。 それは今まで彼女に安っぽく薄っぺらい偽善の笑顔を向けた者とは、まるで違う方向で酷い言い草だった。 　だが、その言葉に宿った意志は、どこまでも真摯なものであることに疑いの余地はなかった。でなければ、わざわざ依頼に反してまでこんなことをする意味がない。 「十年ちょっと生きた程度で、人生の何たるか云々を理解したつもりでいた名無しの人殺しはさっき、銃で撃たれてここで死んだ。ここにいる今のお前は誰でもないまっさらな赤ん坊だ。きっちりと躾けてやるから覚悟しろ」 「……ざ、ざ、ざっけんなぁあああ！　人を犬コロみたいに扱いやがってええ！」 「そう言うな、楽しい生き方ってもんを教えてやるよ。ああそうだ、名前もつけてやる。今日からお前は〝美(メイ)〟だ。今は相当ひでえが、こう名付けときゃいつかそんな飾り気のねえ人生も変わるだろうよ」 「もう意味不明過ぎて何言えばいいか分からねえ……阿片でも食ってんのかコイツ？」 　そんな強引かつ真っ直ぐな好意(あくい)など、今まで向けられたことがなかった少女は戸惑いながら声高らかに罵声を叫び続けるしかなかった。かつてないほどの屈辱に身を焦がされて、もはやさっきまでの穏やかな死を待つ時間など、どこかへと吹き飛んでしまっていた。 だがそれをどういうわけか、不快と感じてはいないことに言い知れぬ悔しさを覚えてしまう。 そんな風に少女は最初に知った温もりは、あまりにも粗野で大雑把なものだった。 それでも、メイという名とシェンハオという居場所を授かったその日、確かに彼女は変わり始めていた。 死と隣り合わせだからこそ生を尊重し、今を噛み締めて人生を必死に謳歌しようとする、誰より生き抜くことにひたむきな男と、 ただ生き残るだけの力を持っていたから、いつか死ぬ時が来るまで茫漠と人生を歩んできた少女。 どちらの方が揺るぎないかなど、今さら言うまでもないのだから。 闇に溶けた魔都の路地裏を疾走するソレは、異形の力を惜しみなく振るう暴風となって、立ち塞がる障害を斬って斬って斬りまくっていた。 「あはっ、はははっ、あはははははははっ!!」 口が裂けんばかりの哄笑を上げて、よくもよくも母さまを許さない死ね死ね死ね死ね――と憤激している。 きっとソレは既に壊れており、一つの目的のためにのみ動く殺戮機械と化しているのだ。 「どうしたの？　私を倒しにきたのでしょう？　殺意を臓腑に突き立ててみなさいよほらぁッ！」 　天地分かつ怒号のような挑発と同時に、正面の戦列に並ぶMG34機関銃の銃口が火を噴いた。路地の壁を穿いて蜂の巣にせんばかりの弾数が炸裂する。 「うぉわぁああ！」 　これに大慌てで飛び退いて遮蔽物に身を隠したのは、白薔薇のやや後ろを走っていたメイだった。 痛覚が正常に機能しておらず他の性能の枷が外れているとはいえ、彼女の体は撃たれれば死ぬ普通の人間なのだ。こんな鉛弾の嵐を踏破する力など無いのである。 　だが自ら人間ではないと宣言した少女は、未来予知に等しい先見の明により、その脅威の弾道を全て見切っていた。鮮烈な身のこなしで火線のど真ん中を駆け抜けるその様は、もう性質の悪い冗談としか思えない。 だが敵は怯まない。続いて十二挺の短機関銃が9mmパラベラム弾を一斉に掃射する。 白薔薇の前進がそこで止まった。いくら視えているといえど、それが避けられるものかはまた別問題だ。弾幕の壁には通れるだけの隙間がなく、結果として白薔薇は突破は不可と見て、最初に通ろうとしていたルートを逸れざるを得なくなる。 無論、それは随伴するメイにとっても同じことであった。 「もう嫌だチクショウ！　いつからここは戦場になったんだ！」 最初こそメイは一度窮地を脱しさえすれば、白薔薇などと一緒にいる必要もないと考えていたため、さっさと一時撤退しシェンハオと合流しようと考えていた。 が、ところどころで小隊の待ち伏せを喰らい、ここまでズルズルと二人で行動するはめになっていた。白薔薇も後にメイと決着をつけるつもりでいるからか、それを拒否することはなかった。 「だらしがないのね、この程度で音を上げてしまうの？」 「私はテメエみてえな化け物じゃねえんだよ！　……つーか、まずいな。こっち行くしかねえとはいえ、この先は廃墟街だぞ」 「望むところよ。邪魔が入らないなんて素敵じゃない」 　列強の強いた租界の構築。強引な再開発。元々この界隈はそれが原因で廃れた街だ。まるで穴のようにぽっかりと出来た無人区画にさしかかっている。 既に人の住む場所ではなくなり始めた。あるいはそのように追い詰めるための布陣だったのか。 「つーか、そろそろ教えろや。ありゃナチだろう、何で上海なんかに来てやがる」 「あら、よく気付いたわね。学が無さそうなのに」 「やかましい、それで奴らはどうしてお前を狙う？」 　情報さえつかめば、戦闘屋として今後どう動くかも大体見えてくる。白薔薇本人から聞くことになるとは、数時間前までは予想すらしなかったが、情報源としては申し分ない。それにおそらく、聞けばこの少女は出し惜しみせずに話すだろう。 「教えて欲しい？」 「もったいぶるなボケ」 　そして、まるで面白がるように目を細めて破顔しながら、殺人鬼は語り始めた。 「この体はね、奴らに弄り倒された結果できたものなのよ。第三帝国の兵器開発のために、ね。それで研究所から逃げ出した私を、奴らは回収しようとしているの。逃亡先を上海にしたのは、単に取り戻さないといけない物があっただけなのだけれど、その時に連中の仲間を一人殺して、居場所がバレてしまったようね」 「面倒臭ぇ……」 　その事実を前にしても、既に白薔薇がオカルトな体をしているのを、直接目で見たメイはすんなり受け入れていた。 「何でその後もわざわざこの上海で目立つような真似をした。お前が今までこの上海で殺した北欧人ってのは、ナチの刺客だろ。それを返り討ちにしまくって、まるで連中を誘うようなことをしたおかげで、戦闘団なんか呼び寄せてるぞ」 　自らの体を化け物に変えた第三帝国への復讐。それだけが目的ならばまだ分からなくもない行動だが、先の様子を見る限りでは弱い。 「……そうしていればいつか、母さまがここに連れてこられて会えると思ったからよ」 「何？」 　それはどういうことだ――とたずねようとした時に、異変は起こった。 　無人区画の奥地、闇の深淵から、何か重く巨大な空気の揺らぎのような地鳴りを感じ取った。 　それだけ。本当にただそれだけなのに、呼吸が止まり、心臓が凍てつき、瞳孔が開く。全身の毛穴が粟立って、今すぐここを離れろと警告している。 　そして気付いた。違う。これは地鳴りではない。 「――――▇▆█A(ア),▇▆██▅▄▄▇▇▆█ah(アァ)▄▄▇▆▃▂」 　苦鳴。臓腑の奥から絞り出した怨嗟の叫喚が、夜の風鳴りと同調して、憤怒の澱で鍛えられた刃のように猛っているのだ。 ――――許さない、逃がさない、皆殺す。貴様ら、私の憎悪を喰らい絶望を知れ、と。 そうして月から堕ちるように出陣した生物兵器第六番が、戦闘屋と殺人鬼に一切の布告なく、莫大な殺意の塊を叩きつけてきた。 落雷のような轟音とともに落下してきた桁外れの巨重が、大地を抉って砕き割る。 　鋭敏な感覚を持つメイと、先見の力を持つ白薔薇でなければ、それだけで粉々にされていただろう。二人は前へ思い切り疾走して跳ぶことで、その大衝撃の直撃をまぬがれていた。 　だが初撃を防いだはずのメイは瞠目したまま、かつてない戦慄のあまり体を凍りつかせていた。 　何だあれは――――と、目の前の光景があまりにも非現実過ぎて、己の正気を疑わずにはいられない。それほどに突如現れたその化け物の姿は常軌を逸していた。 　異様に長い海藻のように濡れた濃緑色のみだれ髪、上半身のみ一糸まとわぬ女性の肢体が薄紫色の肌でひどく毒々しく、下半身は巨大な無数の触手がうごめいて地を踏んでいる。その胸の乳房にあるのは鉤十字の刺青。鼻から上を縛布で覆い隠しており、どす黒い負の念を吐き出す口には唇がなく、歯並びが剥き出しになっていた。そのせいで酷く歪んだ哄笑を上げているように見えてしまう。 「ああ……噂をすればという奴ね。やっとこの時が来てくれた」 「A(ア)▇▆█s(ス),――█▅▄▄▇▇▆█de(デ)…！」 　そんないっそ清々しいほどの異形の怪物が、メイと白薔薇の姿を認めた瞬間に、触手を伸ばして突進してきた。 「ッ!?」 　二人の脳天めがけて振り下ろされた触手を叩きつけてくる一撃は圧倒的な衝撃の怒涛だった。当たれば豆腐のように吹っ飛ばされる威力を、紙一重のところでかわし、猛烈な緊張感がメイの頭を焦がす。 　だがそれで緩み切っていた意識が締め直された。フー・メイとは基本的に、相手が誰であろうとどんな状況であろうと、自らに危害を加える者に容赦はしない。ゆえに、 「ふざけやがってこのタコ野郎が！」 　相手がたとえ非現実的な存在であろうと、いつもと変わらない調子を取り戻していた。 戦闘団から奪い取った短機関銃を、外しようのない距離で乱射する。 それに恐るべき速度で怪物は応じた。機関車めいた圧力を伴って、蜘蛛のような動きで二人へ轟然と走っていく。そして弾丸は当たったそばから白薔薇と同じく再生し、いっこうに届いていない。 「チッ──！」 迫る轢殺の未来まで後数歩というところで、メイは腰から取り出した手榴弾のピンを迷わず引き抜いた。 炸裂する高熱と爆風。黒煙と灰燼が膨らんで弾け、周囲の物を吹き飛ばす。 　視界が悪く怪物の姿は見えないが、確実に直撃しているはずだ。 「……邪魔をしないでくれるかしら」 　無人区画と言えど、狭い裏街道ではせいぜい遮蔽物で身を守るしかなく、衝撃波にあおられたのか、壁際で逆さまに倒れている白薔薇が頬を膨らませて抗議していた。 「あなた、あんなのまで携帯しているの？　危険な女ね。使うならもう少し早く注意してちょうだい。いくら何でもこの距離じゃ爆風までは避けられないんだから」 「そりゃいいこと聞いた。つまりお前ぶっ倒す時は爆弾使えばいいんだな？」 「私は、ね」 　その不吉な言の直後に、耳をつんざく咆哮が煙の向こうから上がった。 塵のカーテンを突き破って、爆発によってできた廃屋の壁の残骸が投擲される。砲弾のような大きさと威力を持つそれが、危うくメイの体すれすれを突き抜けた。 「ッ……！」 のそり、と目に見えるほど濃密な腐臭じみた殺意を揺らめかせて、怪物は再び姿を現した。全身にススや焦げ目、擦過傷があるものの、明確なダメージは見当たらない。見た目通りの強靭な体躯は、鋼そのものだった。そして次の瞬間には全て消え失せて、何事もなかったかのように活動を再開している。 「……化けモンが。これがお前と同じドイツの生体兵器ってか。笑わせやがる、大発明じゃねぇか」 「だから言ったでしょう。私たち不死生物は、アーネンエルベが世界中から蒐集した神代の遺物だの魔術道具だのの呪いの塊を埋め込まれた存在なのよ。ちょっとやそっとじゃ殺し切れない、半不老不死なんだから。あれは海魔が憑いた道具を埋め込まれているようね」 「ジャンル違いにもほどがあるぞ、私はエクソシストじゃなくて戦闘屋だっつーの！」 「ええ、だからもうあなたは手を出さないで。あれを倒せるのは同じ不死生物の私だけよ」 　言って、白薔薇が一歩前に出てナイフを構える。その顔つきは殺人鬼には似合わない凛々しさを孕んでおり、さっきまで狂していたのが嘘のように、真摯に化け物と対面している。「それにこれは、私がやらないといけないことだから」 まるで、今この一瞬だけこの少女は人間に戻っているように見えた。 「A(ァ)...A(ア)▇▆█s(ス)…█▅▄▄▇de(デ)…！」 「ええ、分かっています。あなたはそうせずにはいられないでしょう。そんな姿をさらす今を終わらせるために、すぐに楽にして差し上げます。あの羅針盤を墓標に添えて、安らかに眠れるように。だからどうか、あまり暴れないでくださいね――――母さま」 穏やかな声で白薔薇は怪物を迎えると、目の前にいる化け物を母と呼んで、極大の万感を刃に込めた。瞬間、瞳に燃えるような殺気を最高純度で練り上げた。 　怪物の体が攻撃に動く前に一輪の花が宙を舞う。人を超えた速度の踏み込みによって、一瞬でその懐へと肉薄した。 　即座に迎撃に入ろうとした怪物だが、寸暇の間もなく今度は背後に回られる。全開で稼動する白薔薇の異形の肉体は、怪物の機動力を遥かに上回っていた。 「奴らが憎いのに、目と理性がないばかりに利用される……ああ、見ていられません」 　ナイフが背の肉を切り裂き血染花が咲き乱れた。だが一太刀だけでは傷は浅く、殺し切ることができない。ゆえに圧倒的な素早さで常に死角に回り込みながら、斬って斬って斬りまくる。 あれほどの先見の明があれば、触手を振り回すだけの動きなどたやすく読み切って最善手を打ち続けることができるだろう。 　しかし、本当にそうだろうか。その程度で倒し切れる程度なら、あの戦闘団がこれをわざわざ投入するだけの利がない。ただ図体が大きく力がある程度で、生態兵器の第六番の座に据えられる訳が無いのだから。 「A(ア)▄▄▇▆▃▂,A(ア)▇▆█▇▆█▅▄▄▇▆█s(ス)……！」 　怪物の身体が胎動し、触手に生々しい脈筋を浮かび上がらせ、ギチギチと軋みを上げて暴威の前兆を揺らがせていた。 「憎い、憎い、ああ、そうでしょう。私がこんな風になってしまった――せっかくあなたがあの掃き溜めから拾い上げて人にしてくれたのに、奴らの手でまた化け物されて、挙句あなたまでそんな姿にされてしまったのだから」 瞬間、触手から獄炎のような黒い陽炎が弾け轟々と燃え上がる。この世のどの法にも該当しない穢土の黒炎が、その憎悪を象徴するように猛り狂っていた。 それがどれほどの威力を有するのか、白薔薇は嫌というほど理解していた。絶対にあれを喰らってはいけないと。 横薙ぎに振るわれた業火の一閃は、先ほどまでの攻撃のように易々と避け切れるものではなかった。翻弄をしようにも炎は常に形を変えて、意志を持っているかのように伸びてくる。打撃の軌跡からはありえない攻撃範囲に、懐にたどりつくことさえ難しくなっていた。 「私だって、もう心が人でいられる気がしません。今すぐにだって狂ってしまって楽になりたい。けれど、それでも――」 　そこで後方から弾丸が空を切って怪物の体に着弾し穴を空けた。 大人しくしていろと言って素直に聞くメイではない。わずかな間に敵から奪い取った装備を装填し直し、援護射撃に出てきていた。 だが怪物は、真っ当に肉をえぐられ血が流れているものの、その動きが鈍る様子は一切なかった。メイのように痛覚がないということも考えられるが、それでも身体機能は正確に働いている。 怪物はもう弾丸をわざわざ避けようとはせず白薔薇との戦いに没頭していた。振るった後の隙も反動も考えていないかのような猛攻を絶えず繰り返し、そのプレッシャーで白薔薇の機動力を削いでいる。 　状況の深刻さに一筋の汗がメイの頬を伝った。後方に撤退しようと戦闘団にかち合ってしまう以上、ここで何とかしてこの怪物を、倒せないまでもやり過ごすことができなければ未来はない。 「テメエの母ちゃんおっかねえなオイ。連中に肉体改造でもされたのかよ？」 　軽口を飛ばすメイは、先の白薔薇の言葉を冗談かあるいは気狂いのたわ言と受け取っていた。 　当然だ。まともな神経を少しでも持っているのなら、こんな怪物を母などと呼ぶ者はおかしい、と誰もが言う。これならまだ木の股から生まれたと言う方が信頼できた。 「何よ、当たっているけれど？　実はあなた全部知っていて言ってるんじゃないでしょうね」 「……」 　どうやらこの事態はどこまでもふざけたものであるらしく、大きく後退してメイと並んだ白薔薇が目をすがめて睨んできた。その瞳に輝きはなくとも、ふざけた色はどこにもない。 「チッ、事情は全然分からねえが、胸糞悪い臭いがプンプンしやがる」 真偽はひとまず棚上げするとして、もしそれが本当なのだとしたら、あの連中は白薔薇の母を、この正気も理性も記憶もない変わり果てた姿に変えて、こうして戦わせているということになる。 　非道などという言葉では追いつかない所業だ。いかに白薔薇自身が同情の余地がない殺人鬼であることを差し引いても、拭い切れない嫌悪感をこの戦いを演出した者どもに抱きかけ、 「……下らねえ」 　勝手な妄想で感情移入しようとしていた己に唾を吐き捨てる。そんな複雑な事情など知らないし詮索したいとも思わない。 やるべきことはただ一つ。この場を生き残り、この白い殺人鬼との決着をつけるだけだ。余計なものを差し挟む余地などありはしないし認めない。戦闘屋としてシェンハオの隣にいると決めた以上、他の全ては二の次だ。 短機関銃に最後の弾倉を込め、銃筒を肩に乗せる。 視線の先にいる怪物はいつまでたっても攻撃が当たらない敵に業を煮やしたのか、極大の気勢を溜め込んで次の一撃に備えていた。 「おいガキ、これじゃ埒があかねえ。何かアレに有効な攻撃ねえのか」 「そういうのが無い訳ではないけれど、やらせてくれるとは思えないわね。心臓を破壊するには、よほどの隙をつかないと触手に阻まれるわ。それに銃なんかじゃ壊し切れないわよ」 「ならあいつに壁を壊させて道を作れ。ここじゃやりにくい上に逃げられないのはテメエも一緒だろ」 「いいけれど、あんなのを廃墟に入れたら建物自体が崩落しかねないわよ。そうなると私はともかくあなたは死ぬわね」 「私が死ぬ？　冗談抜かせよ白スケ」 「ならいいわ。そのまま私に殺されるまで活きのいいままでいなさいな」 　言い終わると同時に、二人は反発する磁石のように逆方向へとそれぞれ弾けた。 　白薔薇は怪物の攻撃を誘導するために動き、メイはそう動かざるを得ないように短機関銃で牽制する。とはいえ、向こうは小さなダメージにはまるで頓着しない以上、特定のポイントを集中的に当て続ける必要があった。 　本来、狙いをつけて撃つタイプの銃ではない機種な上、使い慣れていない得物のため、それは至難どころではない神業と言えたが、脳内麻薬の過剰分泌による超感覚という異常体質が、まるで照準補正機器のように働くことで寸分違わぬ精密射撃を可能としていた。 　それは逆に言えば、メイの撃つ弾丸はそうそう外れないことを意味している。確実性に欠けるということから実戦で嫌われているヘッドショットでさえ、彼女はいつでも驚異的な命中率を誇る腕前だった。 　ゆえに、それを避けられる白薔薇の眼の性能は既に人の域を超えている。不死生物としての異能が最も色濃く出たその特性は、事実上、視界に映るあらゆる事象を既知のものに変えてしまう全知の眼だ。避けられない攻撃があるとすれば、それは回避運動が間に合わないだけのこと。彼女が捉え切れないものは存在しない。 共に戦闘において飛び抜けた効果を発揮する異常技能。 だが、それでもこの怪物の負の濃度に比べればまだ生易しいものだった。 「A(ア),A(ア)hh(アア)▇▆█▇▆s(ス)█▅▄▄……！」 　咆哮を上げる悪鬼は、尋常ならざる憎悪の熱に身を焦がしている。無差別に暴虐の炎を撒き散らすその姿はまるで狂戦士だ。何に怒り、何に哀しみ、何を欲しているのかさえ分からないほど、その矛先に一貫性はない。 メイにはそれが、世界そのものを呪い殺さんという怨嗟のように聞こえた。彼女は知っていた。規模も圧力も数段以上劣るが、これと同種の叫びを何度か聞いたことがある。 　これは全てを奪われて、あるいは全てに裏切られ――とにもかくにも、現実に生きることに耐えられず狂うしか道が残されていなかった者の悲憤だ。 「うるせえ黙れ、気に入らねえんだよテメエも――――!!」 　それがメイには、たまらないほど耳障りだった。音量や声質に関係なく、もっと深い部分で魂が聞くことを拒否している。 　怒号とともに炸裂した銃弾が怪物の太腿を貫いた。 それ自体では倒し切るには全く足りないが、ようやく怪物は銃弾を忌避し始めるようになる。これで多少の牽制が効果を発揮し出した。 「こっちよ、母さま。あんな荒くれ娘は放っておいて踊りましょう」 　そして切り結びながらずっと機を待っていた白薔薇が、大きめの建物の壁を背にして立つ。 後退は不可能で、左右に逃げようにも、あの獄炎を横移動のみで避け切れるかは未知数だった。だが臆した様子は微塵もない。全知の眼がこんなところで己は死なないという事象を先見しているように。 「A(ア)■s(ス)te(テ)▇▆█……！」 　突き出された黒い炎と触手の怒涛が、真正面から白薔薇をかき消さんという勢いで迫る。 　集中し、括目し、専心し、没頭する。所詮は既知の攻撃。ああよく見えていますよその一撃――ゆえに白薔薇は他者が己に触れることを許さない。 　後ろへと跳躍。靴裏で強く壁を蹴って、さらに高みへ昇る。 そのまま反転させた身体を炎の先がかすめ、左腕を焼かれた。それでも軽微。後少し高度が足りなければ間違いなく全焼している。 　背後から上がる破壊の轟音に壁が砕けたことを悟りながら、白薔薇は手を伸ばして突き出された怪物の掌の上で片手だけでハンドスプリングをして、頭上を大きく飛び越えて見事に退避せしめた。 　滑るように着地した白薔薇は、髪をかき上げて鼻を鳴らす。 「あなたの真似をしてみたけど、疲れるわねこれ」 「お前、その腕……」 　メイが指差した白薔薇の左腕は、一瞬で炭化させられたように真っ黒になっていた。恐らく皮膚だけの話ではない。腕の芯まで焼き尽くされている。 　物理上ありえない効率での熱伝導――あれの生み出す黒炎は、触れるだけで対象を消し炭に変えてしまうらしい。 「平気よ、このレベルだと時間はかかるけど、私の体なら自然に治るわ。それより――」 新たに開いた退路へ進むはずだったその大穴の奥、元は大型ホールか何かだったか、今は何もないただ無機質で広大な空間が見えた。あれなら別の出入り口もすぐに見つかるだろう。 「よし、これで――――あ？」 　メイはふと後ろを振り返ると、思わず間抜けな声を漏らしてしまった。 月光に照らされてわずかに見えたところに、何か、あってはいけないものがあった。 　戦闘団の追撃ならばまだ良かった。挟撃ではあるが、急いで退避すればまだ間に合う距離だったから。 　こちらへ向かって走ってくる小型車の上に無造作にくくりつけられているのは、どう見ても巨大な弾頭だった。 　おかしなことに、搭乗していたであろうナチス兵の姿は既になくもぬけの空だ。離れた所からアクセルを利かせたままの状態で下りたのか、無人の状態で徐行している。 　それが何を意味するのか、勘の鋭い二人は一瞬で気付いた。 「まずい、あれは駄目ッ！」 「チッ！」 あれに向かって怪物の触手が伸ばされて起爆装置を入れられては、この辺り一帯が吹き飛びかねない惨状を生み出されてしまう。そうなればメイは確実に絶命。白薔薇もしばらく動けなくなるだろう。自爆による無力化がなされれば、後は戦闘団が全て回収していってしまう。 二人は同時に超加速で車に向かって駆けるが、怪物がその図体からは想像もつかないスピードで疾走し、二人は頭上をあっさりと飛び越えてられてしまった。 　轟音を上げて着地し、勢いを殺さずに車へと走る巨体の背中に、メイと白薔薇はもはや追いつけない。 「クソ……ッ！」 　何か手はないのか――と装備を漁るが、爆弾の類は既に使い切っており、起死回生の道具など持っていなかった。 　明確な破滅が刻一刻と迫っているのに何もできない現状に、奥歯が割れるほど歯軋りをする。 名前が無かったあの時のままだったなら、ここで棒立ちになって死を座して受け入れても良かった。 だが今は違う。あの少女は既に死に、今ここにいるのは美(メイ)という名の戦闘屋だ。 こんなところで死んでやれるほど、己の人生は安くないと思えるようになったから。 そんな生き方を教えてくれたあの憎らしい相棒に、まだ何も報いていないから。 　だから知らず口にしていた。祈るように、求めるように、悔いるように、その名を。 あいつを超えて、一人前になってやろう、などなど色々と生意気なことを言ったけれど。 それは半人前扱いされて、呆れられて捨てられるのが怖かったからかもしれないな――と、死を前にしてらしくないことを――しかし紛れも無い剥き出しの本音が――全てその叫びに込められていた。 「おう、呼んだかメイ」 　どこからともなく聞こえた声に思わず、驚きや安心感や頼もしさよりも先に、胸に秘めた想いを悟られた乙女のように胸が跳ね上がったのを覚えたのは――何かの間違いだと信じたい。 上方―――廃墟の屋上から、煙の尾を引いたロケット弾頭が、怪物がまさに接触せんとする寸前に車のすぐそばの地面に着弾した。 　炸裂する弾頭の奔流と、縦に膨らむ黒煙混じりの大劫火によって、爆弾ごと車を明後日の方向に吹っ飛ばされたことにより怪物の目論見は打破された。あの手の弾頭は引火爆発をしないように造られているとはいえ、メチャクチャな解決方法である。無論、誰の仕業かなど、メイには分かり切っていた。 「遅くなった、すまん。ナチどもがここら一帯を囲んでいてな。旦那たちに協力してもらって全力で来たが、まあ結果オーライだったらしいな」 「て、テメっ……！」 「しかし本当に化け物だったか。なら幽霊もこの世にいるってことか。まずいな、明日からトイレ行けない」 　リン・シェンハオ。青幇に専属で雇われるほどの凄腕の戦闘屋は、単発式のロケット砲筒を放り捨てると、爆発を至近距離で受けて硬直している怪物に向けて、右手に握る銃の引き金を絞った。 三十センチ近くはある銃身という拳銃としてはかなり大型のそれは、シェンハオの愛用する特注式の代物だ。その大口径が放つ銃弾はたった一発の命中で怪物の足の甲に大きな風穴を空けた。 下手をすれば脱臼を起こしかねないほどの凄まじい反動が人体にかかっているはずだが、シェンハオは煙草をくわえたまま表情一つ変えていない。 メイと違って痛覚がないという訳ではない。単純な技量のみで使いこなしている。それは暴れ馬を無理矢理制御して真っ直ぐ進めるのと大差ない難易度であり、少なくともメイには真似できない芸当だった。 「ほれメイ。お前の得物だ。どうせ失くしたんだろ」 「うわわっ」 　軽口と共に投げてよこされたコルトとモーゼルとその弾倉を、メイは慌ててつかみ取る。 「しかしなるほどな。やけにナチどもが外側ばっか固めてて、肝心の中身がスカスカの陣形だと思ったら……このデカブツを使うためか」 　常軌を逸した怪物の姿を見ても際立った変化を見せないシェンハオに何を感じたのか、白薔薇が首を上げて語りかける。 「あなた、この女の人の仲間ね？　私を摘み取りに来たのかしら？」 「おお、噂通りの美少女だな白薔薇。そうだな、お前を捕獲しろと命令されているんだが……」 　喋っている間に硬直から復活した怪物が、雄叫びを炸裂させて無数の触手をシェンハオへ弾丸のように伸ばす。まさしく怒涛の勢いであり、怪物の異能を目にしていなかった彼が、それに対応できる道理はない。 　にも拘わらず、 「こいつが邪魔過ぎる上に、不愉快だ」 いつの間にピンを引き抜いたのか、到達される前にただポイ、と石ころを放るような気軽さで落とされた手榴弾が爆発し、怪物の触手は火を噴いてのたうった。 それでも異形の悪鬼はやはり微塵も気勢を衰えさせることなく、未だ健在だった。仮にも体中に穴が空き、二度の爆撃を受けて肌が黒ずんでいることなど、まるで問題としていないように。 シェンハオはさらに続けて高所からの弾丸の雨を降らせる。それらは全て足を集中的に狙って放たれていた。 　急所に命中してもこの怪物は死なないと早々に見切りをつけたシェンハオは、そうすることで怪物の機動力を削ぎ落とし、下にいる二人が楽に戦えるようにする。それを支援するようにメイもぶつぶつ言いながらも二挺拳銃で応戦した。 では、一体誰が主攻撃を担うのかと言えば、 「はぁァッ！」 　白薔薇の刃が流星のように走る。 ただの刃にしか過ぎないはずの白薔薇の攻撃は、異様な鋭さを持って深い傷を与えている。同じ不死生物同士、どう攻撃すれば有効なのかが分かるのだろう。しかし白薔薇の防御力はあくまで怪物のものさしではかるなら、それほど優れてはいない。メイの攻撃がある程度普通に通っていたことからもそれは明らかだ。 ゆえに、振り回される怪物の腕は、彼女にとってもその全てが致命打となり得る攻撃なのである。それらの恐怖に屈さずに、肌が触れ合う至近距離で切りかかるその度胸。いくら特殊な眼を持っていても驚嘆に値する。 気を抜けばすぐにでも死が降りかかる空気ではあるが、シェンハオの参戦によって有利な方向に傾き、このまま事が進めばあるいは――という様相を呈してきたが、 「A(ア),A(ァ),A(ア)▇▆█hhh(アァァァ)▄▄▄▄█▅▇hhhhh(ァァアアアア)▇▇▆█▅▇▆▃▂!!!!」 　否、それどころか、ここにきて彼らは怪物の本領を知ることになる。 まるで先ほどのメイとシェンハオのやり取りが、その逆鱗に触れたかのように、憎悪という名の侵食の呪いを撒き散らす不死生物・第六番(・ゼクス)の、真の力が暴発した。 「なっ――」 「母さま、あなたは……」 　怪物の足元の地が、さっきまでの炎よりもっとどす黒い、タールのような熱い粘性体の侵食によって黒く染まり蠢動を開始していた。 影のように平面でありながら、黒い沼のような底知れなさを称えるその深い暗黒がのたうち回り、全てを呑み込まんと全方位に一気に拡大する。メイは即座に退避を開始するが、白薔薇はただ棒立ちになっていた。己の母の憎悪の深さに絶望したのか、その全知の眼が既に逃げられないと悟ったのか。 　どちらにせよ、考えるだけの猶予すらなく、 「ガっ……ぁ……！」 　底なし沼のような黒い暴威に、なす術なく沈んでいく。シェンハオの怒号が、遥か遠くから響くほどの深淵に堕落していく。ナメクジの詰まった生け簀の中ようにドロドロとした灼熱の憎しみのうねりに。 　白薔薇と共に、深く深く。

b

表示オプション

横に並べて表示：

変化行の前後のみ表示：

今日	- 人
昨日	- 人
合計	- 人

genkinovel @ ウィキ

メニュー

リンク

他のサービス

カウンター

更新履歴

2

「2」(2013/06/02 (日) 20:41:06) の最新版変更点