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…はっ…はっ…

いつもより少し早い。聞きなれた私の息遣いだ。
逃げる獲物の頭を押さえる時、不意に仲間が危険な魔物に絡まれた時、相手の背後に素早く回り込む時…こんな風な息遣いになる。
ちょうど、今のようにだ。

生い茂る枝を、葉を揺らさないように茂みの中を駆ける。思い切り身をかがめて茂みを飛び出したとき、仲間に追われ必死に逃げる獲物が真正面を通過する形になる。ドンピシャだ。完全に背後に気が向いているのだろう、こちらに気づくそぶりすらない。私は素早く矢を番え狙いを定める。…角度が悪い。心臓を狙う事が出来ない。(ごめん…)心のなかで一言だけつぶやいて矢を放つ。森のなかで使い勝手のいい小ぶりな短弓からはじき出された矢は、狙い違わず獲物の後ろ脚の付け根に突き立つ。悲痛な叫びをあげて転がる獲物。悲しげな表情で後ずさろうとする小さな獣に私はゆっくりと歩み寄る。

私の表情は見えない、その筈だ。よく、目は口ほどに物を言う…なんて言葉があるが、私の眼は一切の言葉を発しない。何故なら、そこにあるのは一組の暗い洞穴だけ。鼻から上を仮面で隠した私の顔は、獲物に一切の感情を伝えない。

傷つき、命運尽き果てた獲物にどういう表情を向ければいいのだろう。狩りはだいぶうまくなったが、それだけは納得のいく結論が出せず、曖昧な自分自身を覆うように、私は醜い仮面で素顔を隠した。以来、狩りに出るときは必ずこの仮面を身につけている。

狩りの獲物は森の恵み。こんな事を気にする狩人は私…ううん、私たちくらいのものかもしれない。でも、弓の技は親方に習ったけど、心は…きっと兄から学んだんだと思う。あれは確か…


※※※※※


そう、あれは確か、私が8歳になったとき。その頃、14歳になった兄は既に弓を使った狩りで非凡な才能を発揮していた。また、槍術に興味を持ち、村の自警団の手伝いをしながら槍の稽古を始めたのもこの頃だったと思う。

私はといえば、仕事のとき以外は鼻水を垂らしながら村の男の子たちと棒切れを振りまわして遊んでいた気がする。他の女の子たちは裁縫や料理などを覚え始める頃で…思えば、この頃からだんだんと男女で別れて行動するようになってきたような気がする。当時の私は何も考えず、男の子たちと遊んでいたんだけど。

何故私が料理や裁縫を覚えなかったかというと…うちはそういった事一切を兄がやってしまっていたから。…と言ったら言い訳かな、やっぱり。でも実際、たまにお客さんが来たときなんかに私が料理を担当すると、兄は喜んできれいに食べてくれるんだけど…お客さんは何ともいえない微妙な表情をしてたっけ…。ま、まぁ、その事はいいや。

ともかく、あのころ私はとにかくやんちゃで、無口ながら、自分ももう少ししたら兄のように槍をもって村を守るんだ。そう思っていた。

ある日、その頃働いていた農場で祝い事があり、その日の後半の仕事は休みになった。一緒に働いていた子たちとご祝儀にもらったお菓子を下げて帰る途中、一人の男の子が言った。

「今日さー、狩りを覗きに行かない?」

黒衣森に生きる者ならだれでも知っている。森は精霊の領分。狩りは森に許された場所で、森に許された者が行う神聖な行いだ。面白半分に覗きに行くのは決して良い事ではない。でも、突然の休みと振る舞われためったに食べられないお菓子。そしてその日はとてもよく晴れた月のきれいな晩だった。まるで、これからワクワクするような事が起きるような。そんな月の光だった。きっとその男の子も心が浮き立ってしまったのだろう。

兄が狩りをするようになってから私もちゃんとご飯が食べられるようになり、少しずつ元気になってきていたから、この頃の私はとても好奇心に満ちていたと思う。ただ、この年頃の男の子たちには、私たちにはわからないルールがあるようで、歩きながら集合場所や持っていく装備品などを相談するメンバーのなかに私は入れてもらえなかった。

家に帰って一人でご飯を食べる。兄は今狩りに行っているため私一人だ。突然の休みでする事もなく、食事の後片付けをした後は一人ベッドで尻尾をいじったりしていた。退屈だったり緊張したとき、恥ずかしい時などに気がつくとやっている私の癖だが、兄には毛並みが悪くなるからやめろと何度も言われたっけ。結局今でも治っていないけど。
他の女の子たちは今頃集まって裁縫や料理の練習をしているのだろう。別に仲が悪いわけでもないから混ぜてほしいといえば、快く入れてくれるだろう。
でも…私の心は既に森の奥に飛んでいた。私が今までに村の外に出たのはほんの数回。しかも、街道沿いのほんの浅い部分だけだ。狩りを行うのはもっと奥、普通の村人、ことに私のような子供が行くような場所では無かった。

ベッドの上に膝立ちになり、窓に両肘でもたれ空を眺める。美しいお月さまが雲に隠れ、顔を出しまた隠れる。3度それを見つめたらもう我慢できなくなった。ベッドから飛び降りると、壁に立てかけてあった棒きれ…私は槍のつもりだった…をつかんで駆け出した。


※※※※※※


生い茂る草の根元、子供の目からはまるで緑のトンネルのように見える草と草の間を子猫みたいに四つん這いですすむ。この当時、私はまだ小柄だったから大人では入りこめないこんな隙間も自由に抜ける事が出来た。時々、目に付いた枝に登り草の上に顔を出して目印の大きな木を確認する。前に兄が言っていた。村のはずれから見える大きな木のあたりが狩り場になっていると。村の男の子たちもおそらくそこに向かったのだろう。

少し遅れてしまったが順調に狩り場に近付いている。この茂みを抜けたらもう大きな木のある広場だ。その時突然大きな怒声が上がり、私は飛び上がった。声は茂みの向こう、広場の方から聞こえる。私はゆっくりと這いすすみ、茂みから顔だけを出して様子をうかがう。

大きな木の根元に数名の子供たちが並んで泣いている。村の男の子たちだ。その前にはやはり数名の狩り装束の大人が立っていて、今も子供たちを大きな声でしかりつけていた。狩りをしている大人に見つかったんだ。でも、叱り方がいつもの大人じゃない。…怖い。正直そう思った。いつもなら怒られても、拳骨をもらっても下を向いて舌を出している男の子たちが本気で泣いていた。気がついたら私は涙を浮かべ、尻尾を強くつかんで震えていた。

男の子たちが一人の大人に連れて帰られたあと、他の男たちはまた森の奥へと入っていく。私はすっかり好奇心もしぼんでしまって元の道を戻ることにした。行きとは違いもそもそと、まるで芋虫みたいにゆっくりと這いすすんでいるうちに、何となく嫌な感じがした。…こんなに長くかかっただろうか。

あわてて手近の枝に登り草から顔を出す。背後にさっきの大きな木が少し小さくなって見えた。…でもそこで気がついた。村には大きな建物なんかない、目印になるものが無いんだ。気づいて空を見る。月がさっきと違う方向に見える。しまった、方角を間違えた。どうしよう、森の奥に入ってしまったのではないか。その時、突然近くで大きな声で鳥が鳴き、小さく悲鳴を上げた私は枝から転げ落ちる。草の根元で頭を抱えて丸くなり、ガタガタと震えて目を閉じる。

気がつけばすっかり森の奥に迷い込み、強くなった夜の風がドウドウと草を揺らす。まん丸だったお月さまもひっきりなしに雲を出入りし、まるで風のなかの灯りみたいに明滅してまだらに森を照らしている。夜の空を駆ける力強い羽根をもった獰猛な鳥がけたたましく鳴き声を上げ、さっきまで気づかなかった獣の気配が私を取り囲み、いつ飛びかかろうかと様子をうかがっているような気がする。そうだ、今は狩りの時間なんだ。
…怖い怖い怖い。やっぱり来てはいけなかったんだ。だから、大人たちはあんなに怒ったんだ。さっきまではあんなにやさしかったお月さまも狂ったように瞬いて私を叱りつけている。森が怒っているんだ。言う事を聞かないいたずらな子供に罰を与えるため、森が動き出したんだ。

「お兄ちゃん…怖いよ…」

私は泣きながら茂みを抜け、とぼとぼと歩きだす。もう怒られてもいい、叩かれたっていい。誰かに見つけてほしい。でこぼこの獣道をどれくらい歩いただろうか。ふと、前方に人影を見た。それはまだ手足の伸び切っていない少年。まぎれもない兄の姿だった。私は思わず駆け寄りそうになってハッとして立ち止った。

雲が切れ、青白い月明かりのなか、目を閉じ、だらりと舌を出して横たわるオオカミを前に立ち尽くす兄。その肩が小刻みに震えていた。茂みをかき分け、大人の狩人が歩み寄り、兄の肩を叩く。なだめるように、励ますように、ふたこと、みこと言葉をかけた後、茂みの中に歩み去る。だが兄は自分が仕留めた獲物から目を離さずじっと睨みつけている。…いや、違う。月明かりに兄の目尻がきらりと叱った。…泣いているんだ。

強い兄、大人たちにも一目置かれ、いつだって自信に満ちた兄。私を支え、ちょっと鬱陶しいくらいに面倒を見てくれる兄。いつもキラキラした笑顔でとった獲物を掲げて、狩りの自慢話を私がうるさいと言うまで続ける兄。たまにうざったいけれど…自慢の兄。その兄が泣いている。私は見てはいけないものを見たような気がして、あわてて木の陰に隠れた。

胸が苦しくてドキドキする。これは夢だろうか。私は本当はベッドのなかにいて夢を見ているんじゃないだろうか。

混乱した頭を整理しようと大きく息をついて目を閉じたとき…グルルル…低くお腹に響くような唸り声。ハッと目を開けると、目の前の茂みから大きなオオカミが歩み出てくるところだった。月明かりを反射して光る二つの眼はピタリと私に向けられている。私は凍りついたまま身動きもできず近づいてくるオオカミをただ見つめていた。息ができない。声もでない。大きなオオカミの生臭い息の匂いが判るくらいに近付いたところでようやく金縛りが解けた私は震える腕で手に持った棒きれを構え…ようとした瞬間、前足で激しく叩かれ、ごろごろと転がり後ろの木に激しく叩きつけられた。その一撃で私の「槍」はあっけなく折れ、私は折れた棒を放り出して襲撃者に背を向け、転がるように逃げ出した。しかし、ほんの数歩走ったところで足がもつれ、不様に地面に転がる。

哀れな獲物をもてあそぶように、ゆっくりと近づく足音。荒い息遣い。もはや足に力も入らず、立つ事もかなわない私は頭を抱え外部の一切を遮断してただ、丸まって震えていた。まるで魔法の呪文のように、たった一つの事を口の中で繰り返し唱え続ける。それはやがて熱を帯び、声が高くなる。

…助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて…

近づく足音。もう手が届く距離まで近づき、唸り声が威嚇から攻撃に変わったその瞬間、私は力いっぱい叫んでいた。

「…お兄ちゃんっ!!」

最初に感じたのは戸惑い。覚悟していた身体に牙が食い込む感触。背中だろうか、お尻だろうか。もしかして、いきなり首だろうか…。でも、いつまでたってもその感触はなく、かわりに鈍い打撃音と獣の悲鳴が私に降ってきた。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げると、月明かりを浴びて私の前に立つ兄の背中。弾き飛ばされたオオカミは突然の邪魔者に一瞬戸惑った表情を見せたが相手を手ごわいと見たか、それとも何か強い意志でもあるのか。兄をじっと睨み据え、兄の周りをゆっくりと回るように歩きだす。兄は弓を背負ったまま、片手に小ぶりなナイフだけを持ち、静かに身構えたまま相手の動きに合わせて体の向きを変えている。既にオオカミにとって警戒の対象外となった私はただただ、兄とオオカミ、2人の動きを見つめることしかできなかった。

息がつまるような沈黙のなか、オオカミが突如大地を蹴る。兄が突き出すナイフをかいくぐり、覆いかぶさるようにして兄を押し倒そうとする。体格で劣る兄は巧みに体を入れ替え、喰いつこうとするオオカミの頭を抱え、鋭く足を刈り飛ばし巻き込むようにして投げる。巨大なオオカミの後ろ脚が月明かりの下、美しい弧を描いて巨体が地面に叩きつけられる。
同時に耳を覆いたくなるような悲鳴が上がったのは叩きつけると同時に兄の肘がオオカミの胸にめり込んでいたから。

そのまま首筋にナイフをあてがおうとする兄の腕を力任せに振り払い、強引に立ち上がったオオカミは盛大に血を吐きながらも雄々しく兄を睨みつける。なんだろう。明らかに勝負はついたのに、どうしてこのオオカミは…その時、突然解った。少し離れた茂みの縁。先程兄が仕留めたオオカミのそばにまだ小さい、子供のオオカミたちが立ちつくしている。

私はどうしていいのか、どんな感情を持っていいのか分からず、ただ子供のオオカミたちを見つめていた、その時。苦しげな、無念そうな叫び。大きなオオカミが兄に覆いかぶさるように、もたれかかるようにして息絶えていた。最後まで兄に牙を突き立てようとしたのだろう。その口は開いたまま、兄の首筋のそばで動きを止めていた。

気がつくと、子供のオオカミたちは姿を消していた。兄はオオカミの身体を下し、私のそばに来ると、怪我はないか確かめるように私の手や足を検める。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

私はしゃくりを上げながら、そう繰り返した。兄はただ、黙って私を抱きしめてくれた。


※※※※※※


「どうした?どっか怪我でもしたのか?」

声をかけられ我に帰ると、PTリーダーのヒューランの青年が心配そうに覗き込んでいる。私はあわててちょっと考え事をしていただけだと言ってごまかした。そうだ、依頼をこなすにはまだまだ獲物の数が足りない。暗くなるまでにあと8匹は仕留めないといけない。ぼんやりしていてはみんなに迷惑をかけてしまう。

「何でもないよ。それより茂みを抜ける時、足跡を見つけたよ。たぶんまだ新しいと思う」

まだ何か言いたそうなリーダーの背を押し、強引に次の獲物に向かう。首をかしげていた仲間たちも渋々ついてくる。
そのあと、私は兄に連れられこっそりと家に帰った。あの日私が狩り場を覗いたことは大人にはばれず、叱られることはなかったが、自分が狩りをするようになるまで、二度とふたたび狩り場を覗きに行くことはなかった。また、あれから私は槍をもつ気になれず、もっぱら弓の扱いに集中していくようになった。

あの時の涙について兄は一言も語らなかったが、その姿に、私は狩りというものの本質、私たちは他の生き物の犠牲によって生かされているんだという事を強く、強く教えられた気がした。

「なぁシルファ、ほんとに大丈夫か?もし気分が悪いなら…」

まだ心配そうなリーダー。この人と組むのは2回目だが、剣の腕よりも仲間への気遣いの方がうまいこの若いヒューランを私は好ましく思っている。私の勝手な思い出で依頼を失敗にするわけにはいかない。

「…本当に心配性だね。大丈夫、それよりのんびりしていたら日が暮れてしまうよ。さ、急ごう!」

ことさら明るくそう言い残して先に立って走る。そうだ、今は考える時じゃない。私はまだ未熟だ。狩人と獲物の関係も、生き物を狩るということの本当の意味も、いずれ自分なりの答えが出る時が来るだろう。兄はもう見つけたんだろうかと考えかけてあわてて頭を振る。そうじゃない、大切なのは自分の答えだ。その答えが見つかったとき、きっと私はこの仮面を脱ぐ事が出来るのだろう。


あの日の月夜とは違う眩しい日差しを浴びて私は駆ける。まっすぐに前を向いて、自分だけの答えを探して。